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芥川龍之介の『彼』をどう読むか① ソルラルのある景色

 僕はふと旧友だった彼のことを思い出した。彼の名前などは言わずとも好いい。

(芥川龍之介『彼』)

 ※これはそう長い話ではない。ニ三分で読み終わる。ここから後はまず『彼』を読んだ後で読んでもらいたい。そうしないと何かとんでもなく残酷で耐えられないような血みどろの不幸なことが起こる。必ず。


 芥川龍之介のタイトルの付け方には大抵少々色気がない。逆に言えば控えめで外連味がない。だから『奇怪な再会』などという題名には警戒してしまうのだ。いや、もう『奇怪な再会』の話は止めよう。今回は『彼』の話だ。これほど抑えたタイトルの時には要注意だ。それは『女』で説明済みだ。

 夏目漱石の作品のいくつかに「名前が解らない」というレトリック(?)のようなものがある。なかなか名前が出てこないものもあり、苗字と名前が上手く結びつかないものもある。なんなら「なにがし」と誤魔化されるものもあり、余所余所しい頭文字でお茶を濁されるものもある。
 その意図は必ずしも明確ではない。
 芥川も『彼』の冒頭から彼の名前を明かさないことにした。
 その意図は必ずしも明確ではない。


 彼は叔父さんの家を出てから、本郷のある印刷屋の二階の六畳に間借りをしていた。階下の輪転機のまわり出す度にちょうど小蒸汽の船室のようにがたがた身震いをする二階である。まだ一高の生徒だった僕は寄宿舎の晩飯をすませた後、度たびこの二階へ遊びに行った。すると彼は硝子窓の下に人一倍細い頸を曲げながら、いつもトランプの運だめしをしていた。そのまた彼の頭の上には真鍮の油壺の吊りランプが一つ、いつも円い影を落していた。……

(芥川龍之介『彼』)

 なるほど。もう解った。これは「トランプの運だめし」をしていた「彼」が案外早く運の尽きる話だ。

 そう『彼』は若くして死んでしまう。仮にこれを芥川龍之介の系譜と重ねてしまえば、まだ明治時代の話だ。それにしても明治末期なので「真鍮の油壺の吊りランプ」というのは少し時代が古いように感じられるものの、この作品が書かれた大正十五年十一月から振り返ると、一昔前の話なのだ。

 そしてこれはやはり早すぎる死の話だ。

「何か本を貸してくれないか? 今度君が来る時で善いから。」
「どんな本を?」
「天才の伝記か何かが善い。」
「じゃジァン・クリストフを持って来ようか?」
「ああ、何でも旺盛な本が善い。」

(芥川龍之介『彼』)

 こうして借りた『ジャン・クリストフ』の第一巻を、彼は読み終わることなく死んだ。『ジャン・クリストフ』は「天才の伝記」と云ってよいのか少し迷う小説である。ロマン・ロランは元々伝記作家だったが、『ジャン・クリストフ』は彼の大河小説と呼ばれる全十巻の壮大な物語だ。ジャン・クリストフは音楽の才能には恵まれてはいたものの、「天才」という感じのしない人物だ。最終的には成功して年老いる。いかにも「彼」の彼岸にある人ではある。

 マルクスやエンゲルスの本に熱中しヴェルレエン、ラムボオ、ヴオドレエルを軽蔑し、「僕」に議論を吹きかけていた青年は『ジャン・クリストフ』の第一巻を読み終わることなく死ぬ。まさに残りの九巻の波乱万丈を、多くの人々との出会いを、そして孤独や罪悪感や苦悩や賞賛を知らずに死んでしまう。

 つまり『彼』は早すぎる死の話なのだ。

 あるいは『彼』は目出度い日に「彼」が死ぬ話だ。

 彼の死んだ知らせを聞いたのはちょうど翌年の旧正月だった。何なんでも後に聞いた話によれば病院の医者や看護婦たちは旧正月を祝うために夜更まで歌留多会をつづけていた。彼はその騒ぎに眠られないのを怒り、ベッドの上に横たわったまま、おお声に彼等を叱りつけた、と同時に大喀血をし、すぐに死んだとか云うことだった。僕は黒い枠のついた一枚の葉書を眺めた時、悲しさよりもむしろはかなさを感じた。

(芥川龍之介『彼』)

 旧正月で大騒ぎをするのは中国人ばかりかと思っていたら……

 いや、これは本当に日本なのか?

 彼の転院した病院は……

 彼はかれこれ半年の後、ある海岸へ転地することになった。それは転地とは云うものの、大抵は病院に暮らすものだった。僕は学校の冬休みを利用し、はるばる彼を尋ねて行った。彼の病室は日当りの悪い、透き間風の通る二階だった。彼はベッドに腰かけたまま、不相変らず元気に笑いなどした。が、文芸や社会科学のことはほとんど一言も話さなかった。
「僕はあの棕櫚の木を見る度に妙に同情したくなるんだがね。そら、あの上の葉っぱが動いているだろう。――」

(芥川龍之介『彼』)

 棕櫚の木!

 外来種だ。日本に自生していた木ではない。これはまさか清国ではなかろうが、どうもはっきりしない。

 ある海岸と言われるとつい宮崎あたりをイメージしてしまう。後で「僕等の半町ほど向うに黒ぐろと和んでいた太平洋も」とあることから北九州や福岡ではない。佐賀、長崎、熊本なら東シナ海と書くだろうか。

 この「ある海岸」「はるばる」「棕櫚の木」「太平洋」は明らかに芥川がパズルを組んでいるところだ。

 しかし宮崎とは決めがたい。

 それにしても日本人の医者や看護婦たちが旧正月を祝うために夜更まで騒ぐものだろうか。

「なおまた故人の所持したる書籍は遺骸と共に焼き棄て候えども、万一貴下より御貸与の書籍もその中にまじり居り候節は不悪らず御赦し下され度く候。」 

(芥川龍之介『彼』)

 焼き棄て候えども!

 そんな始末があるものか。焼くのはいいが棄てずとも良かろうものを。
ロシア軍でも攻めて来たのか? 『炎628』か?

 人を焼き棄てるような文化は日本中のどこにもなかろう。

 あるいはこれは土葬文化の根強い韓国において死んだ日本人を焼いて捨てたという話なのではなかろうか。韓国ではやはり旧正月(ソルラル)には連休になり、様々な遊びをして祝う習慣がある。つまり病院は宮崎ではなく併合されていた韓国の釜山……と思えば韓国は日本海と東シナ海と黄海に囲まれていて、太平洋には面していない。

 このパズルは解けない。

 やはり『彼』はトランプで運試しをしていた「彼」が宮崎かどこかで歌留多にたたられる話だ。

 今日の所は。

※実在のモデルに合わせるとこの場所は千葉の大原ということになる。しかし千葉では旧正月を祝う大陸風の習慣があるのだろうか? ということでやはり小説の背後に事実のあるなしは考えない立場から、ここは旧正月を祝う南国の病院として置く。

[余談]

 読書メーターを読んでいると、確固たる「この俺様」「このわたくし」が読んでしまっているものは作品のコアなところに辿り着けず、自分と云うものの危うさに気が付いている人の方がより深く作品を読んでいるように思えてくる。

 自分には、という語りにはうんざりする。

 私はあなたのことを知らない。知りたくもない。

 そういう関係性の中で、何か意味があることを語り得るか、どうか。

 そうした厳しい地平に立って、果たして何を語り得るものか。

 私は言い訳はしたくない。私なりにとは言わない。

 誰もが驚くのでなくては今更私が書く意味はない。

 どう? 驚いた?

[余談②]

 そういえば沖縄にも旧正月を祝う風習がある。大陸よりなのかな。

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