見出し画像

芥川龍之介の『杜子春』をどう読むか① 人間は皆薄情  


「こんな話があるんです。或る、これといってなんのとりえもない一人の青年が、旅をしているうちに道に迷うんです。ところが、やがて一軒の屋敷を見つけて宿を乞うと、なんとそこの主人の仙人が待ちかまえていて、お前は今夜うちの娘と結婚することになつているのだ、といつて大歓迎なんですね。そして青年は、たちまちその仙人の、信じ難いように美しい娘と結婚することになるんです。そうして彼は夢のように倖せな毎日を送るんですね。ところが、そのうち青年は故郷に帰ってみたくなる。すると仙人は色んな力を持つお守りを彼に渡してやるんですが、その青年は途中でそのお守りの力を借りて、ある屋敷から美しい娘を盗み出してしまう。もちろん大騒ぎになって沢山の追手が来るわけですが、それもお守りの力で寄せつけない。そこで集まってきた追手たちは、これはきっと偉い仙人だから、争ったりしないで、なんとか娘を返してくださるようただひたすら懇願しようということになる。そして青年が娘を返すと、追手たちは喜んで、みんなで青年を途中まで送ってくるんですが、するとそこに仙人とその娘が現れて、これ、いたずらしてはいかんと言っただろうが、なんていって笑って迎えるんですね。そして追手の見ている前で、仙人が杖の先で地面に線を引くとそれがたちまち大きな河になり、続いて娘、つまりその青年の妻が河の上にベールを投げかけるとそれが虹のような橋になるんです。そして三人は、みんなが驚嘆して仰ぎ見ているなかをその橋を渡っていく。橋は三人が渡ったあとから次々と消えて、そのあとには険しい山が次々と巨大な扉のように重なっていく。みんなは思わずひざまずいて、消えて行く三人の姿を伏し拝む……ね? 素晴らしい話でしょう?」
「ええ」とぼくは、まだその仙人の話が胸の中に落着かないまま曖昧にうなずいた。すると彼は、ぼくの曖昧さに不満なのか、ちょっと身をのり出してぼくの顔をのぞきこんできた。
「ほんとうに、ほんとうにいい話なんです。そう思いませんか?」
「ええ。」とぼくはやっとはっきりと大きくうなずいた。 

(庄司薫『ぼくの大好きな青髭』中央公論社 昭和五十二年)

 この高橋氏は続けて「まずなんのとりえもない青年ってところがいいでしょう」と強調する。青年が悪戯をしても仙人と妻はちゃんと待っている。笑って迎えてくれる。人生というものは、こういうものじゃなくてはいけないのではないかと。才能や手柄のご褒美ではなく、こうした幸福が与えられるべきなのではないかと。この時彼の息子は農薬を飲み生死の境をさまよっている。

 私は芥川の『杜子春』を読み返す度に、この高橋氏の「まずなんのとりえもない青年ってところがいいでしょう」という言葉を思い出す。そんな人生が誰にでも与えられればそんなに素晴らしいことはないとは思いつつ、そんな都合のいいお伽噺をいい大人が「ぼく」(浪人生)に嬉々として話していることに何か毒が吐けないような感じに戸惑う。そもそもお伽噺を批判しても何の意味もない。それはお伽噺であり現実ではないからだ。それでもいい大人が現実はお伽噺のようでなくてはならないと考えている。『ぼくの大好きな青髭』はまだ少なくない割合の人たちが「みんながしあわせになるにはどうしたらいいか」と考えていた信じられないくらい大昔の小説だ。

 このおためごかしを拒絶したのが村上春樹さんなのだと私は勝手に考えている。

 学生運動を引退後、高度資本主義社会にうまく迎合できなかった村上春樹さんはデタッチメントと称する引きこもりに入る。そこからなんとも賺した作品群が生まれて来た。

  高橋氏の「仙人の話」と引き比べててみた時、『杜子春』はいかにもおとぎ話的ではなく、むしろ初期村上春樹作品のような賺しとデタッチメントの作品であるように感じられないだろうか。

 何度も金が得られるというのは確かにお伽噺である。大抵の人は金は「くれ」とは言うものの、「あげる」とは言わない。現実では誰もお金はくれない。しかし話はそもそも金の問題ではなくなっている。杜子春は孤独だ。

 改めて『ぼくの大好きな青髭』を読み返していて、引用して、気がついた。庄司薫さんはここで「倖せ」という文字を使っている。普段何気なく使う「幸せ」の文字に人偏が足されている。いや、これは時代の話ではなく、そもそも人間を離れた倖せなどあるのだろうかと改めて気づかされたのだ。「みんながしあわせになるにはどうしたらいいか」などという発想がおためごかしであるのと同じ意味で、人間を離れた倖せもまたナンセンスなものなのではなかろうか。

 一人の時間は大切だが、間接的であれ、時には他人とコミュニケーションを取らなければ、それでも幸福でいられるとはとても思えない。では杜子春が選んだ「人間らしい、正直な暮し」とは何だったのか。そのヒントは畜生道に落ちた父母にあると私は考えている。

「金はもういらない? ははあ、では贅沢をするにはとうとう飽きてしまったと見えるな」
 老人は審しそうな眼つきをしながら、じっと杜子春の顔を見つめました。
「何、贅沢に飽きたのじゃありません。人間というものに愛想がつきたのです」
 杜子春は不平そうな顔をしながら、突慳貪にこう言いました。
「それは面白いな。どうして又人間に愛想が尽きたのだ?」
「人間は皆薄情です。私が大金持になった時には、世辞も追従もしますけれど、一旦貧乏になって御覧なさい。柔しい顔さえもして見せはしません。そんなことを考えると、たといもう一度大金持になったところが、何にもならないような気がするのです」
 老人は杜子春の言葉を聞くと、急ににやにや笑い出しました。

(芥川龍之介『杜子春』)

 この杜子春の「人間というものに愛想がつきたのです」という言葉のうちには自分も含まれていよう。

「信用しないって、特にあなたを信用しないんじゃない。人間全体を信用しないんです」
 その時生垣の向うで金魚売りらしい声がした。その外には何の聞こえるものもなかった。大通りから二丁も深く折れ込んだ小路こうじは存外静かであった。家の中はいつもの通りひっそりしていた。私は次の間に奥さんのいる事を知っていた。黙って針仕事か何かしている奥さんの耳に私の話し声が聞こえるという事も知っていた。しかし私は全くそれを忘れてしまった。
「じゃ奥さんも信用なさらないんですか」と先生に聞いた。
 先生は少し不安な顔をした。そうして直接の答えを避けた。
「私は私自身さえ信用していないのです。つまり自分で自分が信用できないから、人も信用できないようになっているのです。自分を呪うより外に仕方がないのです」
「そうむずかしく考えれば、誰だって確かなものはないでしょう」
「いや考えたんじゃない。やったんです。やった後で驚いたんです。そうして非常に怖くなったんです」

(夏目漱石『こころ』)

 人間という大きなものを語るには、余程の核心をつかまねばならないだろう。そのためにただ金のために友人のふりをする何人かを知っているだけでは足りない。おそらく杜子春こそは金の爲でさえ誰かの友人になることのできない自分を知っていたのだ。あるいは書かれていない部分には、杜子春の非人情ぶりが隠れているのかもしれない。

「そうか。いや、お前は若い者に似合わず、感心に物のわかる男だ。ではこれからは貧乏をしても、安らかに暮して行くつもりか」
 杜子春はちょいとためらいました。が、すぐに思い切った眼を挙げると、訴えるように老人の顔を見ながら、
それも今の私には出来ません。ですから私はあなたの弟子になって、仙術の修業をしたいと思うのです。いいえ、隠してはいけません。あなたは道徳の高い仙人でしょう。仙人でなければ、一夜の内に私を天下第一の大金持にすることは出来ない筈です。どうか私の先生になって、不思議な仙術を教えて下さい」

(芥川龍之介『杜子春』)

 さてここで杜子春が仙術を手段としてかなえたい目的は果して何だったのであろう?

 大抵の人は奇跡の力が得られればまず金が欲しかろう。しかし杜子春は「いや、お金はもういらないのです」と明言している。仙術を使い、自分で自由に金を得たいわけではないのだ。では一体何がしたかったのか?

「どうだな。おれの弟子になったところが、とても仙人にはなれはすまい」
 片目眇の老人は微笑を含みながら言いました。
「なれません。なれませんが、しかし私はなれなかったことも、反って嬉しい気がするのです」
 杜子春はまだ眼に涙を浮べたまま、思わず老人の手を握りました。
「いくら仙人になれたところが、私はあの地獄の森羅殿の前に、鞭を受けている父母を見ては、黙っている訳には行きません」

(芥川龍之介『杜子春』)

 何か人間らしい親子の情を語っているようでありながら、畜生道に堕ちた父母のために仙人になることを諦めたのであれば、杜子春が人間に留まったのは、仙人になれば仙術で、畜生道に堕ちるようなことをするつもりでいたからではなかったのか。

 その仙術は「その青年は途中でそのお守りの力を借りて、ある屋敷から美しい娘を盗み出してしまう。もちろん大騒ぎになって沢山の追手が来るわけですが、それもお守りの力で寄せつけない」といった具合に、必ず女に向かっていたとは限らない。しかし人間に向かって仕掛けられ、人を操ることにはなっただろう。そこは具体的には書かれていないので、飽くまでも「金が目的ではない」ということろに留まるべきではある。ただ畜生道に堕ちた父母の息子が「みんながしあわせになるにはどうしたらいいか」という問題解決に仙術を使うことは無いだろう。

 あるいは仙人の「貧乏をしても、安らかに暮して行くつもりか」という問いかけに「今は出来ません」と答えた杜子春がやがて諦めることになる当初の目論見には、人頼みに出来ない、密かなものがあったとまでは考えても良いだろうか。それは例えば透明人間になって女湯を覗くといったものでないとしたら、杜子春を畜生道に堕とすおぞましいものではなかったのか。

 それはつまり言われてみればおぞましいものであって「その青年は途中でそのお守りの力を借りて、ある屋敷から美しい娘を盗み出してしまう。もちろん大騒ぎになって沢山の追手が来るわけですが、それもお守りの力で寄せつけない」というお伽噺の中で青年が美しい娘をレイプしているであろうことが明らかなように、言い方一つでごまかされそうなこと、少なくとも本人の意思とは無関係に誰かを支配する残忍な振舞、やられる側からしてみれば決して容認できないこと、強い言葉で非難すべきこと、許されない暴挙であり、断固として非難すべきことであろうことは想像に難くない。

 杜子春は一人の生活を選んだ。誰かといれば、その人を傷つけてしまうことが確実だからだ。杜子春はなんのとりえもない青年ではなく、何かをやらかしてしまう男だ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?