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「ふーん」の近代文学②兼芥川龍之介の『偸盗』をどう読むか⑤ 刃傷沙汰はもう古い

 新感覚派という、横光利一らを指すキャッチフレーズが滑稽なのは、優れた作家と云うものは概ね卓越した独自の感覚、ひょっとすると冗談だとしか捉えられない奇妙な感覚を抜かりなく見定める能力を持っているからだ。例えば三島由紀夫の『盗賊』には、「服の下は裸」という感覚が描かれる。当たり前のことながら、これを掲示板に書き込むと「天才」と呼ばれる。「服の下は裸」、この感覚を冗談でも何でもなく捉えられることこそが優れた作家の資質であろう。

が、一方から見ればまた、すべてが変わったようで、変わっていない。娘の今している事と、自分の昔した事とは、存外似よったところがある。あの太郎と次郎とにしても、やはり今の夫の若かったころと、やる事にたいした変わりはない。こうして人間は、いつまでも同じ事を繰り返してゆくのであろう。そう思えば、都も昔の都なら、自分も昔の自分である。 

(芥川龍之介『偸盗』)

 老人にとっては当たり前なこの錯覚「すべてが変わったようで、変わっていない」という錯覚をさして押しつけがましくもなく持ち出してくる芥川龍之介は当時まだ二十五歳の青年である。老いれば誰しもがそう言った杜撰な錯覚に陥ること、それが錯覚でしかなく、決して達観ではないことを芥川は感覚的に嗅ぎ取っていたのだ。兄弟の感覚を知らない芥川だが、こうして老人に向けられる眼差しは鋭い。

歩くごとに、京の町の荒廃は、いよいよ、まのあたりに開けて来る。家と家との間に、草いきれを立てている蓬原、そのところどころに続いている古築土、それから、昔のまま、わずかに残っている松や柳――どれを見ても、かすかに漂う死人のにおいと共に、滅びてゆくこの大きな町を、思わせないものはない。途中では、ただ一人、手に足駄をはいている、いざりのこじきに行きちがった。――

(芥川龍之介『偸盗』)

 村上春樹という作家は阪神淡路大震災、そして東日本大震災を予言するかのように地震や洪水のイメージを描き続けた。谷崎潤一郎は大正五六年から何故か極度に地震に怯えつづけ、いよいよ関東大震災になると即座に関西に逃げ出した。

 大正の昭代に京の町の荒廃を描く芥川にも、同じものが見えていたのかもしれない。しかしある意味ではこれほど「ふーん」な話もないものだ。夏目漱石は確かに関東大震災も敗戦も知らない。

 漱石は日本に関しては「滅びるね」と『三四郎』では広田萇に言わせながら、『私の個人主義』では「けれどもその日本が今が今潰れるとか滅亡の憂目にあうとかいう国柄でない以上は、そう国家国家と騒ぎ廻る必要はないはずです」と述べている。未来志向で、飛行機や潜水艦などの発達を予言している。

 その点芥川はどうだろう。未来を見ている感じが全くしない。書かれている現在は漱石の時代よりモダンになる。現代ものを書きさえすれば、文明の進歩はその作品に入り込まざるを得ないのだ。ところが芥川はまるで引きこもるように過去に留まる。

 こう言っては何だが芥川龍之介よりも夏目漱石の方が新しい感じさえする。仮に「すべてが変わったようで、変わっていない」という感覚を錯覚ではなく、真実だとして描いていたとしたら芥川龍之介は夏目漱石作品に興味がなく「ふーん」したと見られても仕方ないのではなかろうか。

 夏目漱石の理想に反して、芥川龍之介の『偸盗』はゾラ、モーパッサン流の自然主義以上の畜生道に走っている。夏目漱石が「何か善きもの」を描こうとしたのに対して、芥川は全く違う路線を歩んだ。最初から俗悪なもの、えげつないものを敢て求めて書いた谷崎潤一郎が夏目漱石作品に対して「ふーん」の人であったことは確かだ。谷崎潤一郎には夏目漱石作品が理解できなかった。

 しかし芥川が『羅生門』を『偸盗』に進化させたのだとしたら、それはやはり夏目漱石が描かなかったところ、人間の醜さの方に敢て意識を振り向けているように見える。夏目漱石は確かに『趣味の遺伝』で人間が鬼畜化する場面を描いた。しかしそれ以降、一度も殺生を描いていない。『趣味の遺伝』で描かれる戦争は狂った紙に命じられた鬼畜の所業であり、漱石の描こうとしたものはそういうものではなかった。『羅生門』の下人は老婆を殺さなかった。しかし『偸盗』では次郎と太郎が沙金を切り殺したかのように書かれている。仮に次郎と太郎でないにせよ、誰かは沙金を殺したのだ。漱石はもう人が刃物で殺し合う時代ではないと考えていたように思う。実際に刃物を振り回していただけに本当にそう思っていたのではなかろうか。しかし芥川は刃物を振り回し続けた。これはまさに漱石文学に対する「ふーん」ではないのか?

 この問題はここまで書いて、その先に何物も見いだせず、安易に結論付けたくないのでただ迷っていることだ。

 つまり問題は同じところに留まっている。

 芥川が漱石文学を継承しているように見えないということは……井原西鶴の再評価で始まった近代文学において、ほぼ井原西鶴の影響のない夏目漱石が異分子であって、太宰治や織田作之助も再び井原西鶴と繋がろうとしたこと。三島由紀夫が「漱石を読むくらいが関の山」と書いたこと、しかし現在生々しく残っている近代文学と言えばまず間違いなく夏目漱石だということ、そんなことを想ってみると、夏目漱石を「ふーん」とやり過ごすことそのものが近代文学の本質であるかのような奇妙な錯覚に陥ってしまう。夏目漱石作品の粗筋さえもつかめないものが阿呆なほど論文を書いてしまう出鱈目がまかり通るのは、「ふーん」こそが近代文学なのだからなのだろうか。

 その成果が、

 こんな形で表れている。

 そして「静が生かされること」は無視され続ける。

 芥川龍之介は乃木将軍が静子を殺す凄惨な場面を描かなかった。結局それが証拠なのだという気がしなくもない。

 しなくなくもない。




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