見出し画像

芥川龍之介の『永久に不愉快な二重生活』をどう読むか

 中村さん。
 問題が大きいので、ちよいと手軽に考をまとめられませんが、ざつと思ふ所を云へばかうです。
 元来芸術の内容となるものは、人としての我々の生活全容に外ならないのだから、二重生活と云ふ事は、第一義的にはある筈がないと考へます。
 が、それが第二義的な意味になると、いろいろむづかしい問題が起つて来る。生活を芸術化するとか、或は逆に芸術を生活化するとか云ふ事も、そこから起つて来るのでせう。
 あなたの手紙にあつた芸術家の職業問題などは、それを更に一歩皮相な方面へ移して来ての問題だと思ひます。
 だから「物心両面に於ける人としての生活と、芸術家としての生活の関係交渉」と云つても、それぞれの意義に相当な立場をきめてかからないと、折角の議論は混乱するより外にありますまい。
 所で私は前にも云つたやうに、今さう云ふ問題を辯じてゐる暇がない。
 が、強しひて何か云はなければならないとなると、職業として私は英語を教へてゐるから、そこに起る二重生活が不愉快で、しかもその不愉快を超越てうゑつするのは全然物質的の問題だが、生憎それが現代の日本では当分解決されさうもない以上、永久に我々はこの不愉快な生存を続けて行ゆく外はないと云ふ位な、甚だ平凡な事になつてしまひます。
 これでよかつたら、どうか諸家の解答の中へ加へて下さい。以上。

(大正七年十月)

(芥川龍之介『永久に不愉快な二重生活』)

 こう言っては何だがレタスは人の生存のために必ず必要な野菜ではない。いわば趣味の食べ物だ。レタスがないからと言って、人はたいして困らない。しかしレタス農家の人はレタスの価格が下がると「農家を馬鹿にしている」と感じる。
 私はそのことを批判している訳ではない。

 この本は250円で、一冊売れると175円が私の収入となる。これがなかなか売れない。この本を読まなくても誰も困らないからだ。しかし私はそのことで「馬鹿にされている」とまでは思わない。

 芥川も『永久に不愉快な二重生活』執筆当時は作家としての収入で「生活」ができると考えてはいなかったのだろう。だから仕方なく英語教師をしていて不愉快になる。レタス農家の人はレタス販売で生活ができると考えている。収入が減ると馬鹿にされていると感じる。


 おそらく芥川も私もレタス農家の人も、他人にとっても有益なものを販売しているという意識は共通している筈だ。それが評価されないことが不愉快なのだ。この芥川の二重生活は間もなく解消されることになる。しかし不愉快は解消されただろうか?

 問題は「生活」の中の別のところにあるのではなかろうか。大正七年の芥川に一つアドバイスできることがあるとしたら、「適度に運動しろ」と云いたい。不愉快さは運動で解消できる。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?