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愛されなくても姦すことはできる 牧野信一の『闘戦勝仏』をどう読むか③

 ひとたびナンセンスなどと言い出せば夏目漱石の『三四郎』ほどナンセンスな小説はない。

 いくら考えても野々宮の探し物や不愉快な檜の意味は解らない。ナンセンス。ただ青春小説を読んだ、という印象だけは残るようで、そういう感想はたくさん見つかる。みんなナンセンスだから細部は省みないのか?

 私は昔からお化けが出てくる小説はナンセンスだと見做していて、そういう意味では『西遊記』もナンセンスな話だと思っている。そして『闘戦勝仏』もここまでのところは、無駄に天皇批判をしてみても後が続かず、性的倒錯に転じてみたところで、さあどうなるかとさして期待しないで読んでいる。

 仮に三島由紀夫が美しい女に生まれ変わりたかったのであれば、三島由紀夫はレズビアンではないかと、数時間前まで考えていた。では美輪明宏とどうなりたいのかというところが上手く想像できず、美輪明宏自身がどうしたかったのかということも曖昧だからだ。こういう性的倒錯に関しては考えてもきりがないところがある。

「汝はそのやうな名薬の処方を存ずるのか。早速与へたがいゝだらう。功徳の道に心を砕く者が何故もつと早く申し出なかつたか。」
 悟空はギョッとした
「いえ/\、その処方なるものが非常に難しいので、一粒はよく不治の難病を治し二粒は以て悪鬼を殺し三粒は即ち天の雲を掌に呼んで飛雲に駆ることが出来得るところの名薬には相違御座いませんが、材料を得るのにちよつと骨が折れるのです、実は烏金丸と称するもので御座いまして、巴豆の細末と大黄の一両宛に鍋臍灰を混じて、是を白馬の尿と、さうして、未だ地上の何物にも触れぬ天の雨水を層雲の上で受けた無根水とで練り固めるので御座います。ところが余の物は大概集るとしても、私達が此国に入つて以来一度も雨が降らないのであります、で無根水を得ることが出来ません。それに思案をしてゐるのであります。」
「それで毎日此間中から悲しげな顔をして考へ込んでゐたのだな。初めて解つた。」八戒と悟浄は悟空の慈悲心に抜目のないのを賞讚した。
「まあ、さうだ。」悟空は仕方なく答へた、また嘘を吐いてしまつた、と思つた。

(牧野信一『闘戦勝仏』)

 テロをたきつけた玄奘法師はここでも隙のない厳しい指摘をして悟空を一瞬たじろがせる。

 言葉責め。

 しかしむしろ注目すべきは牧野が悟空をかなりの口達者にしてしまっているところであろうか。「つまり俺は僕自身に考ふべき一つの謎をも持つてゐない事をも嘆いてゐるのだ」と言いながら、表層的には十分言葉を持っている。猿、という生き物に一般的に与えられるのは「浅知恵」である。しかしこの猿はなかなか知恵が働くようだ。

 そもそも『西遊記』では天界のテロリストであり、釈迦如来に五百年間拘束されていたことになっている悟空をマゾヒストの飼い犬のように仕立てておいて、なお美のために王に近づこうと企ませる。

 けれど朱紫国王は、その美しさの点に於ても朱紫の王たるべく十分である、といふ噂を聞いてゐた。その美しい王の手を取ることが出来るかと思へば、どんな嘘偽りをなしても、何でもない、と思つた。「療法も知つてゐるには違ひないのだから、まあいゝさ。」と思つた。

(牧野信一『闘戦勝仏』)

 その王というのは男性ではないかと、今の時代にはそぐわないことを書いてみる。

 いや、誰が誰を好きになろうと自由なのだが、あくまでなんとなく参考までに、いやいや、そんな深い意味はないのだけど、ちょっとだけ確認させてもらうと、悟空の性自認は男性で、性的嗜好は両方いけるということなのか? それともむしろ玄奘法師のように生物学的には男性で女性的な美しさを持った相手の方がむしろ好ましいということなのか?

 ここらあたりの自由な展開の自由さというものが、意図したわざとらしさでないとしたら、美輪明宏と堂々と戯れる三島由紀夫のようで可愛らしいが、私にはまだ牧野信一の正体はまるで見えてない。

 しかし仮に夏目雅子くらい美人なら性別などどっちでもいい、というような意見がごく一般的なものであると仮定してみると、牧野は実に当たり前のことを言っているに過ぎない。しかしそもそも「仮に夏目雅子くらい美人なら性別などどっちでもいい」というような考え方、或いは趣味嗜好は多数派なのだろうか。私個人はまだ修業が足らず、そこまでの考えには至っていないので何故かこの画が浮かんできてしまう。

 そしてよくよく考えてみると、悟空は毛むくじゃらの「見苦しい姿体と顔貌の所有者」なのだ。仮に夏目雅子が目の前に現れようが、そのことでなおさら自分の醜さが付きつけられ、惨めにならないだろうか。
 ちょうどいいブス。
 そんな相手こそふさわしいのではないのか。

「それよりも、あゝ、さうして、あの麗はしい人民達は王の病の平癒を知つたら、どんなにか悦んで歌ふことだらう、川のほとりで、或はあの青々と若草の生ひ茂つた小山の上で。艶麗な市民、いつも俺に泣顔ばかり見せてゐる市民達の悦びの吟唱が聞き度いのだ。俺の顔を見ても、その時こそは今程俺を怖れぬやうになるだらう、兎に角、若し俺がこの市民達に異様な化物として扱はれなくなつたら、俺はそれだけで十分満足するのだ。愛されようなどといふ自惚れは、すつかりあきらめてゐる、俺は自分の顔を湖水に写して見る時と同じやうに人々から恐怖さるゝ時に、もうそれは悲しみ尽した。

(牧野信一『闘戦勝仏』)

 江戸時代の何とかさんは、この市民と王の親密な関係性、すこしの濁りのない直接つながり合えるような信頼と尊敬の形をもって谷崎潤一郎の『麒麟』の影響がみられると指摘したのであろうか?

「それは此の國の人民が、わが公の仁徳と、わが夫人の美容とを讃へるあまり、美しい花とあれば、悉く獻上して宮殿の園生の牆に移し植ゑ、國中の小鳥までが、一羽も殘らず花の香を慕うて、園生のめぐりに集る爲でございます。」

(谷崎潤一郎『麒麟』)

 無論このような国家体制というものは御伽噺の中にしかありえないものである。
 またこのことを、つまり「王の病」を大正天皇の病と結び付けるには、この作品が書かれた時期がネックになる。
 実際の作品の公表時期に関わらず、これが四年前に書かれていたものだという牧野信一の証言が真実だとするのならば、その時期にはまだ大正天皇の病気は公表されていないのだ。(完全に知られていないわけではなく一部には漏れていた可能性は否定できない。漏れていたという公的証拠も当然ながら見つからない。これは『女性自身』や『女性セブン』のような皇室に関する噂話のあれこれから考えて、そうではないかという勝手な妄想である。)

 しかし牧野はあくまでもそれは『あいまいなこと』だ、としているのだ。作品が公表された時点では日本には病気の王がいた。タイミングが良すぎる。

 それにしても悟空は王の病の治癒により、市民の自分に対する扱いの改善を願うとして、「美しい王の手を取ること」という酷く直接的でパーソナルな欲望を、パブリックで間接的な方向にねじってきた。美しい市民の誰にも愛されることがなくてさえかまわないと、かなり欲望を薄めてきた。何ならセクシュアリティとかそういう話でさえなくなっている。市民から化け物として扱われたくないと、基本的人権のレベルに話をすり替えている。

 すり替える?

 私は矢張り数時間前、ナルシストは自分の裸体で自涜できるのかどうかと考えていた。悟空がつるつるになりたいと願望していたように読めたし、去勢されたいという願望にはそういうところがあるとも考えていたからだ。それがいまさら「市民達に異様な化物として扱はれなくなつたら、俺はそれだけで十分満足するのだ」と言われてみると、やはり話がすり替えられたとしか思えないのだ。

 ところが、

 私の煩悩はそれ程頼りないものになつてゐるのです。それで未だ卑しい猿は、それだけのものにさへすがつてゐずにはゐられないのです。師よ、どうぞ許して下さい。」こんなことを胸に浮べながら悟空は奥殿の方へ導かれて行つた。怪しげな顔を一目でも直接に王に見せたら、王は必ず気絶してしまふに違ひないのであるから、悟空は立派な頭布を頤まで被つて、決して上は向かないといふ約束で出掛けたのである。長い廻廊を幾つも曲つてだんだんに王の寝室が近づいて来る、と思はるゝと悟空は胸の動悸が次第に昂まるのを覚えた。それにつれて、今迄胸に繰り返してゐたところの、良心の為に言訳の為の言訳めいた心も消えて行くのであつた。頭布の裏の赤い更紗が眼にぶつかつて具合が悪いので、俯向いて歩いて行くと、如何にも哀れつぽい引かれ者でもあるかのやうにトボトボと隠見する自分の履の先が見えた。ちよつと、またこゝで軽い自責を感じたので、朱欄の下へ眼を向けると、其処には沢山の海棠の花が葉と共に咲き乱れてゐた、歩調につれて花の群は帯のやうに走つてゐた。――「何だ馬鹿が。」ふと悟空は、どういふわけかそんな気がして、無い心を叱るやうな気持ちで呟くと、頭布で顔を覆はれてゐる為か赤裸な大胆な気持が起きて、到底明るみでは考へることすら許されぬ様々な卑しい空想に思ふ様耽つて、舌など出したりした――殺人、掠奪、姦淫、こんな光景は第一番に浮んだ……。

(牧野信一『闘戦勝仏』)

 勿論そんなはずはないのだ。牧野は「殺人、掠奪、姦淫、こんな光景は第一番に浮んだ」と書いてみる。ここは宮殿である。その欲望は確かに暴力的な形で美しい王に向けられている。

 姦淫。

 それは美しい王との πρωκτικός έρωτας, πρωκτικό σεξによって果たされるものだ。

 つまり?

 悟空はけしてinterfemoral sexなどでは満足しないであろう。聖邪の口唇など何の役にも立つまい。

 愛されなくても姦すことはできる。

 この欲望は、より具体的な行動として実際に王に向けられるのか? 

 それとも手ひどいしっぺ返しを食らうのか。それはまだ誰にも解らない。何故ならまだここまでしか読んでいないからだ。

[余談]

 なんやかやとエロスと破壊欲をもってに迫る悟空。三島由紀夫が読めばやはり「ほほう」となるところであろう。ぐるぐる変化するセクシュアリティと詭弁に大江健三郎的なものを見出すかもしれない。酷く個人的な欲望が急にパブリックな主張に転じるちぐはぐさも、三島の観念の空中戦の硬直さはないものの、屁理屈の程度としては立派なものだ。

 谷崎の影響下にあったとしても耽美的な感じもない。まあなんというか、とにかく面白い作家だ。


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