ナンセンス作家 牧野信一の『あやふやなこと』を読む
意外に思われるかもしれないが、私はいわゆる狂人ではない。ただし兄弟はそうではない。だから私にもなにかそういう遺伝的なものがあるのかもしれないと疑ってみたが、やはりそういうものは見つからない。私はよく言えばトヨタカローラのような平凡な人間で、何か特異的な資質もなく、並外れた何かができるわけでもなくナンセンスな人間である。
ナンセンス。
芥川の『誘惑』を読みながら、そして平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読みながら、夏目漱石の俳句を読みながら、どうしてもそのことに触れたくなった。
ナンセンス。
おそらく人の生き死には無意味で、大抵の人生は意味のないものだ。パチンコや韓国ドラマだけを生きがいにしている老人の生は他人から見れば意味がないというのではない。偶数の素数の発見のために日々計算を繰り返している数学者の人生も、大飯ぐらいに挑み続ける人の人生も等しく無意味なのだ。
牧野信一は夏目漱石や芥川龍之介ほど有名ではない。ただし一部では大変人気があり、それなりに評価のされている作家でもある。
私はこの牧野信一と中島敦のナンセンスは面白いと思っている。
といっても大方の人はぴんと来ないかもしれないので一つ嚇かすようなことを書いてしまうと『山月記』のようなナンセンス小説は面白いと思っているという意味だ。
中島敦の『山月記』は教科書の定番で糞真面目に教訓が拾われているけれどもあれは「若くして名を虎榜に連ねた李徴が虎になる」という話で「若くして名を虎榜に連ねた李徴が大虎になる」とまで読んだ時には明らかなナンセンス小説なのである。そしてナンセンスという言葉を与えた時にこそあれやこれやが腑に落ちる仕掛けになっている。
しかしそういう読み方が全然できていないのが現状である。
牧野信一と中島敦がナンセンス作家であるという見立ては私の発明ではない。ナンセンス小説集のアンソロジーに二人の作品が採られているケースが既にある。しかし他人の見立てはどうでもいい。今回はこの牧野信一の出発点を確認するために、『あやふやなこと』を読むことにしたい。
ここで述べられている通りであれば牧野信一の処女作は『爪』かまたは『闘戦勝仏』ということになる。それぞれ谷崎潤一郎の『悪魔』、『麒麟』の影響がみられるということになっている。
この点はいずれ精査することにしよう。
牧野信一は呆れるくらい、いや笑ってしまうくらい「何もない」と言ってのける。これが三島由紀夫なら呆れるくらい、いや笑ってしまうくらいぺらぺらとまくし立てる所であろうが、牧野は平然と、いや困っているかのように「何もない」と語って見せる。
牧野信一は島崎藤村の引きで世に出た作家である。おべっかで島崎藤村の作品名でも出せばいいのに出さない。これはもしや島崎藤村は読んでいなかったなと私は疑う。
牧野信一は詩を書いていた。そして落ち着きがなかった。この『あやふやなこと』は殆どこれだけの話ながら、牧野信一のナンセンスさが見えてくるようなインタビューになっている。
三島由紀夫なら何もないことを隠すために話を盛るところ、何もないと言ってしまう。このサービス精神のなさ。
牧野信一のナンセンス、それが実際の作品にどのような形で展開されるのか。それはまだ誰も知らない。何故ならまだ読んでいないからだ。
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