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『三四郎』の謎について35 ミスなのか洒落なのか。

 Kの生れた家も相応に暮らしていたのです。しかし次男を東京へ修業に出すほどの余力があったかどうか知りません。また修業に出られる便宜があるので、養子の相談が纏ったものかどうか、そこも私には分りません。とにかくKは医者の家へ養子に行ったのです。それは私たちがまだ中学にいる時の事でした。私は教場で先生が名簿を呼ぶ時に、Kのが急に変っていたので驚いたのを今でも記憶しています。(夏目漱石『こころ』)

 養子に行く前後で「K」という呼称には変化がありません。従って「K」は姓ではありません。ですから「K」を幸徳秋水や工藤一だという作家には文章読解力がないことになります。あるいは飛ばし読みをする癖があるのでしょうが、飛ばし読みをしておいて「K」は誰かなどと単独モデルを考察すること自体がナンセンスなのではないでしょうか。平たく言えば無茶苦茶な話です。言っていること自体は「ニシキヘビは首を切ってもまた生えてくる」という程度に無茶苦茶な話です。「ニシキヘビは首を切ってもまた生えてくる」と主張する理科の先生がいたらどうでしょう。そんな先生は学校を首になるのではないでしょうか。

 私は真面目に「K」を幸徳秋水や工藤一だという作家は大学から追放されるべきだと考えています。学生さん達、恥かしくないですか?「ニシキヘビは首を切ってもまた生えてくる」と主張する先生に成績をつけられて。

 これは出鱈目ではなく、みなさんが「青空文庫」で夏目漱石の『こころ』の XHTMLファイルを開きCTRL+Fで検索窓を出して「姓」と打ち込む、それだけで、わずか数秒の作業で出鱈目かどうかは確認できることです。

 ついでなのでもう一つ、この引用箇所から読み取れることがあります。「K」は養子に行くことを先生に教えていませんでした。ここで、

①「K」は悩みを一人で抱え込むタイプである

②「K」は本当のことを云わないタイプである

③「K」は先生の事を友達だと思っていない

 ……という可能性が考えられます。この三つの可能性は後に全てなぞられます。例えば、

 その内年が暮れて春になりました。ある日奥さんがKに歌留多をやるから誰か友達を連れて来ないかといった事があります。するとKはすぐ友達なぞは一人もないと答えたので、奥さんは驚いてしまいました。なるほどKに友達というほどの友達は一人もなかったのです。(夏目漱石『こころ』)

 ここで「(先生のほかには)友達なぞは一人もない」と(先生のほかには)が省略されたと読むには別に何か根拠が必要です。そしてそんな根拠は見つかりません。

 何の話をしているかと言うとやはり「文章を読むとはどういうことか」という話です。書いてあることを読み、勝手に付け足さない、これが文章を読むということです。逆に誤読は書かれていることを読まないで、書いていないことを付け足すことから生じます。誤読を「多様な解釈」などと言い逃れしようとすることは単にみっともないことです。

 野々宮の家はすこぶる遠い。四、五日前大久保へ越した。しかし電車を利用すれば、すぐに行かれる。なんでも停車場の近辺と聞いているから、捜すに不便はない。実をいうと三四郎はかの平野家行き以来とんだ失敗をしている。神田の高等商業学校へ行くつもりで、本郷四丁目から乗ったところが、乗り越して九段まで来て、ついでに飯田橋まで持ってゆかれて、そこでようやく外濠線へ乗り換えて、御茶の水から、神田橋へ出て、まだ悟らずに鎌倉河岸を数寄屋橋の方へ向いて急いで行ったことがある。それより以来電車はとかくぶっそうな感じがしてならないのだが、甲武線は一筋だと、かねて聞いているから安心して乗った。(夏目漱石『三四郎』)

 ここには漱石のあからさまなミスがありますが、校正されていません。そのミスが解る人はいますか?

 一つは「かの平野家行き以来」ですね。「平野家」の文字はここ一か所しか出てきません。与次郎と一緒に行ったのは、

 次に大通りから細い横町へ曲がって、平の家という看板のある料理屋へ上がって、晩飯を食って酒を飲んだ。そこの下女はみんな京都弁を使う。はなはだ纏綿している。表へ出た与次郎は赤い顔をして、また
「どうだ」と聞いた。(夏目漱石『三四郎』)

 はい、「平野家」ではなく「平の家」ですね。これは何ともかばいようのないイージーミスだと思います。

 ただこれをやられると困るのが、この近辺に書かれていることがミスなのか何かの演出なのかが判断が付けられなくなるということです。

 まず「神田の高等商業学校へ行くつもりで、本郷四丁目から乗ったところが、」が解りません。三四郎が神田(神田一ツ橋通町1番地)の高等商業学校へ行く用事なんてものがあるのでしょうか。同郷の友人がいたとして学校に用はないでしょう。下宿先を訪ねるのが普通ではないでしょうか。

 そしてここからがややこしいのですが、三四郎の目的地が神田一ツ橋通町1番地だとしたら最寄り駅は神保町または錦町三丁目にならないでしょうか。

 で、何駅で乗ったんでしたっけ「本郷四丁目」って何ですか。これ「本郷三丁目」ですよね。今でもよく言われますが駅名には三丁目がやたら多いんです。「本郷四丁目」は流石にわざとやっているんだと思います。

 あとは曖昧なところもあります。

新聞集成明治編年史 第十四卷


 「九段」は「九段下」なのか「九段上」なのか解りません。そもそも「本郷三丁目」から「春日町」→「大曲」→「飯田橋」→「九段下」→「神保町」→「スルガ台下」で歩けばいいのではないでしょうか。

 飯田橋駅で外濠線に乗り換えたとして、小石川橋、水道橋、本郷元町、湯島五丁目、萬世橋、松住町、お茶の水、甲賀町、スルガ台下、錦町三丁目神田橋、と進んで、ここで乗り過ごしたとしてその後は、龍閑橋、常盤橋、呉服橋、八重洲橋、鍛冶橋、スキヤ橋外、山下門、土橋、桜田本郷町、南佐久間町、虎ノ門外、葵橋、溜池、山王下、……。

 つまり「数寄屋橋」は「スキヤ橋外」ということなのでしょうか。

 このあたりのことはミスなのかわざとなのか曖昧です。

 この記事を讀んでいただくと解るのですが、漱石は次作『それから』では、この電車の駅名をあえて地名に置き換えたりしてさらに解り難く複雑に書いてきます。地名への置き換えというのは余りにも変化の激しい路線に対する百年の計なのでしょうか。

 しかし、結局今は地名も変わっているのでさらにさらに解り難くなっています。古地図と路線図を見比べないと何が書いてあるのか判然としません。だから今、ここに突っ込む人もいないようです。『それから』の場合、飯田橋から電車に乗った代助が何処迄行くのか幻惑するように書かれたものと思われます。『三四郎』のこの部分にどこまで幻惑の意図があったのかは測りかねます。

 ただ「平野家」はミス、変な経路は三四郎の田舎者ぶりを表現したところ、そして「本郷四丁目」はいたずらの可能性が高いとしておきましょうか。だって「本郷四丁目」はほぼ真砂町ですからね。 


[余談]

 日本政府がツイッターのトレンド入りしていたので見たら、流石に惨憺たる思いに、……ならないなあ。そんなことよりやるべきことがたくさんある。残された時間を大切にしたい。












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