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岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する120 夏目漱石『こころ』をどう読むか497 偽りなく



あなたの思いはどうでもいい

  
 何か「何が何でも」という漱石論が好きではない。事実は事実、間違いは間違いとして、厳しく指摘すべきではあろうが、自説を信念をもって語るあまり、「何が何でも」になっている人がいる。「こうあるべき」という自身の理想や感覚のためにロジックが犠牲になっている。それなのに「絶対」などと書いてしまっているので恐ろしい。
 平たく言えばあなたの思いも私の思いもどうでもいい。そんなものには価値はない。
 どうしてそこまで自分の信念みたいなものを持ち出すのか不思議に思う。こうあるべきという漱石論は思いこみに囚われてしまう。先生のように。


自殺より外にない

 波瀾も曲折もない単調な生活を続けて来た私の内面には、常にこうした苦しい戦争があったものと思って下さい。妻が見て歯痒がる前に、私自身が何層倍歯痒い思いを重ねて来たか知れないくらいです。私がこの牢屋の中に凝っとしている事がどうしてもできなくなった時、またその牢屋をどうしても突き破る事ができなくなった時、必竟私にとって一番楽な努力で遂行できるものは自殺より外にないと私は感ずるようになったのです。あなたはなぜといって眼をみはるかも知れませんが、いつも私の心を握り締めに来るその不可思議な恐ろしい力は、私の活動をあらゆる方面で食い留めながら、死の道だけを自由に私のために開けておくのです。動かずにいればともかくも、少しでも動く以上は、その道を歩いて進まなければ私には進みようがなくなったのです。

(夏目漱石『こころ』)

 夏目漱石作品の粗筋さえ捉えきれず「分裂」を見出してしまう癖のある柄谷行人は、こんなところになんと主題から逸脱した夏目漱石自身の自殺願望を見出してしまう。これだと泥棒小説を書くと泥棒願望が見出されてしまうという理窟になる。また先生が自殺する理由など誰にも解る訳はないと書いてしまう。一応ここに先生が自殺する理由が書いてある。しかし抽象的なので解り難い。

【問①】先生が自殺する理由は何か?

 これはそのまま読めば「不可思議な恐ろしい力」に追い詰められたということになるのだろう。無論具体性は欠く。その「不可思議な恐ろしい力」が説明できないと答えにならないではないかという人があるかもしれない。しかしここは「不可思議」と書かれているので先生自身には捉えきれていないのだ。ただ外側から見ればこれは「大袈裟な道徳心」ということにはなるのだろう。それは確かに大げさではあるが、仮にも友人の死を招いてしまった強欲さを非難する道徳心なので、大げさすぎるとまでは言えないのかもしれない。

 だからといって死なねばならないという理窟はないわけで、ここには合理的な理由などと云うものがあるわけではない。それは死刑に合理的な理由がないのと同じだ。自殺より外にない、とは明らかに先生の思いこみに過ぎない。しかし人は思いこみの生き物だ。夏目漱石の作品は分裂しているという思いこみを柄谷行人は生涯払拭できなかった。思い込みと云うのは非合理的なものだ。つまり非合理的な理由はある。

 残念ながら。 

私は妻を残して行きます

 私は妻を残して行きます。私がいなくなっても妻に衣食住の心配がないのは仕合せです。私は妻に残酷な驚怖を与える事を好みません。私は妻に血の色を見せないで死ぬつもりです。妻の知らない間に、こっそりこの世からいなくなるようにします。私は死んだ後で、妻から頓死したと思われたいのです。気が狂ったと思われても満足なのです。

(夏目漱石『こころ』)

 岩波もうすうす気が付いているようだが、これは「乃木将軍夫妻殉死」という明治の精神に対する強烈な皮肉である。中野の家のことは静子に任せるという「遺書」を読めば誰でも気が付くべきであるところ。妻に残酷な驚怖を与え血まみれにしたとしたら、そんな乃木希典は武人でも何でもない。気が狂ったと思われても仕方のない男ではなかろうか。

 仕事でミスをしました。責任を取ります。妻も殺しますなんて夫を現代ではどう評価するだろうか。

 しかし不思議なことに外国人の感想を読んでも乃木希典への批判は見つからない。それこそ東洋的な考え方とか武士道的精神とか禅というあたりにこじつけられて、異質で理解しがたいものではあるが「彼ら」にとっては崇高なものであり、文化的な違いそのものてあるから根本から否定すべきではないものとして取り扱われているのではなかろうか。

 この殉死の問題については、たまたまではあるが、乃木夫妻が殉死するはるか以前に漱石自身が馬鹿々々しい考え方だとして否定していたようなところがある。私の本のどこかに正確な引用がある筈だから確認してもらいたい。 

偽りなく書き残して置く私の努力

 私が死のうと決心してから、もう十日以上になりますが、その大部分はあなたにこの長い自叙伝の一節を書き残すために使用されたものと思って下さい。始めはあなたに会って話をする気でいたのですが、書いてみると、かえってその方が自分を判然描き出す事ができたような心持がして嬉しいのです。私は酔興に書くのではありません。私を生んだ私の過去は、人間の経験の一部分として、私より外に誰も語り得るものはないのですから、それを偽りなく書き残して置く私の努力は、人間を知る上において、あなたにとっても、外の人にとっても、徒労ではなかろうと思います。

(夏目漱石『こころ』)

 先生の遺書が正直なものなのかどうかという問題は何度も考えた。その都度少しずつ考えが変わるものの、基本的には概ね正直に書かれていると考えてよいだろうという結論になる。
 

 つまり静目線で事実を綴ると違う印象になり得るのではないかと云う事。実際余裕が出来たらそんな小説を書いてみたいけれども、誰かがもうやっているかもしれないし、なかなか面倒くさいので考え物だ。

 この「偽りなく書き残して置く私の努力」という文言が虚構の中に現れる理屈に関しては『文芸の哲学的基礎』で宣言したところの、

 一歩進んで全然その作物の奥より閃き出ずる真と善と美と壮に合して、未来の生活上に消えがたき痕跡を残すならば、なお進んで還元的感化の妙境に達し得るならば、文芸家の精神気魄は無形の伝染により、社会の大意識に影響するが故に、永久の生命を人類内面の歴史中に得て、ここに自己の使命を完うしたるものであります。

(夏目漱石『文芸の哲学的基礎』)

 この還元的感化を信じての事であろう。虚構とは出鱈目ではないのだ、その中にはなにがしかの真実が現れているのだという強い自負が見える。漱石は小説家こそ人間を知るものでなくてはならないと考えていた。そしておそらく自分こそは人間と云うものが解っていると考えていた。しかしその小説は誰にも読まれることは無かった。それは残念なことだが、私は私が理解した正しい読みを偽りなく書き残して置く努力を続けている。

 それを誰か一人に押し付けようともそんな相手はいない。

 いつか現れればいいが。

 


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