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芥川龍之介と猫


 三十日 晴
 午後畑耕一、菊池寛来る。夕方谷崎潤一郎来る。皆の帰つたのは九時なり。今日猫を貰ふ。

我鬼窟日録

 大正八年五月三十日芥川は猫を貰っている。三島由紀夫にも結婚前に猫とじゃれている写真があるが、よほど注意深く観察しなければ、この二人と猫を結び付けることはできないだろう。
 猫を飼えば何かにつけて猫について書きたくなるものではないかと思う。猫という生き物はそういうチャームを持っている。しかしこの二人は驚くほど、と言っていいと思うが、猫について語っていない。いや、猫について語らないのではない。「我が猫」について言及しないのだ。

二十四 猫

 これは「言海」の猫の説明である。
「ねこ、(中略)人家ニ畜フ小サキ獣。人ノ知ル所ナリ。温柔ニシテ馴レ易スク、又能ク鼠ヲ捕フレバ畜フ。然レドモ竊盗ノ性アリ。形虎ニ似テ二尺ニ足ラズ。(下略)」
 成程猫は膳の上の刺身を盗んだりするのに違ひはない。が、これをしも「竊盗ノ性アリ」と云ふならば、犬は風俗壊乱の性あり、燕は家宅侵入の性あり、蛇は脅迫の性あり、蝶は浮浪の性あり、鮫は殺人の性ありと云つても差支へない道理であらう。按ずるに「言海」の著者大槻文彦先生は少くとも鳥獣魚貝に対する誹謗の性を具へた老学者である。

(芥川龍之介『澄江堂雑記』)

 ここまで書いていて、「うちのチビは……」と芥川は書かない。小説にも猫は何度も登場するが、そこで「うちのは……」と書くわけにはいかない。しかしここはついつい、「うちのは……」と書いてしまいそうなものだが書かない。芥川は犬嫌いと云われているが、猫好きとは言われていない。

僕等は勿論動物園の麒麟に驚嘆の声を吝むものではない。が、僕等の家にゐる猫にもやはり愛着を感ずるのである。

(芥川龍之介『文芸的な、余りに文芸的な』)

 実にぎりぎりの書き方だ。「僕等」とされているので一般論であり、具体的に自分も猫を飼っていると書かれているように読めない。

筍、海苔、蕎麦、――かう云うものを猫の食ふことは僕には驚嘆する外はなかつた。

(芥川龍之介『耳目記』)

 確かに隠されているわけではない。「猫を飼っていらっしゃるんですか?」と訊かれれば、「ええ、そうです」そうですとは答えそうな書き方だ。しかしぎりぎり「うちの猫」と書かない。

 一 猫

 彼等は田舎に住んでゐるうちに、猫を一匹飼ふことにした。猫は尾の長い黒猫だつた。彼等はこの猫を飼ひ出してから、やつと鼠の災難だけは免かれたことを喜んでゐた。
 半年ばかりたつた後のち、彼等は東京へ移ることになつた。勿論猫も一しよだつた。しかし彼等は東京へ移ると、いつか猫が前のやうに鼠をとらないのに気づき出した。「どうしたんだらう? 肉や刺身を食はせるからかしら?
「この間Rさんがさう言つてゐましたよ。猫は塩の味を覚えると、だんだん鼠をとらないやうになるつて。」――彼等はそんなことを話し合つた末、試みに猫を餓ゑさせることにした。
 しかし、猫はいつまで待つても、鼠をとつたことは一度もなかつた。そのくせ鼠は毎晩のやうに天井裏を走りまはつてゐた。彼等は、――殊に彼の妻は猫の横着を憎み出した。が、それは横着ではなかつた。猫は目に見えて痩せて行きながら、掃き溜めの魚の骨などをあさつてゐた。「つまり都会的になつたんだよ。」――彼はこんなことを言つて笑つたりした。
 そのうちに彼等はもう一度田舎住ひをすることになつた。けれども猫は不相変らず少しも鼠をとらなかつた。彼等はとうとう愛想をつかし、気の強い女中に言ひつけて猫を山の中へ捨てさせてしまつた。
 すると或晩秋の朝、彼は雑木林の中を歩いてゐるうちに偶然この猫を発見した。猫は丁度雀を食つてゐた。彼は腰をかがめるやうにし、何度も猫の名を呼んで見たりした。が、猫は鋭い目にぢつと彼を見つめたまま、寄りつかうとする気色も見せなかつた。しかもパリパリ音を立てて雀の骨を噛み砕いてゐた。

(芥川龍之介『貝殻』)

 こうした書きようからは猫に対する愛着よりもむしろ遠く突き放した感覚が見える。猫には確かにこうした野生の本質と、人に頼る怠惰が同居しているものだ。猫を飼う人間はむしろそこに惹かれていく。芥川にはそういうものが見えない。

 とはいえ、やはり芥川は猫が嫌いというのではなかろう。

 猫――いや、女は赤い顔をした。この瞬間の感情の変化は正真正銘に娘じみてゐる。それも当世のお嬢さんではない。五六年来迹を絶つた硯友社趣味の娘である。保吉はばら銭を探りながら、「たけくらべ」、乙鳥口の風呂敷包み、燕子花、両国、鏑木清方、――その外いろいろのものを思ひ出した。女は勿論この間も勘定台の下を覗きこんだなり、一生懸命に朝日を捜してゐる。

(芥川龍之介『あばばばば』)

 三島由紀夫は丸顔の女性が好みだと言って、奥さんを貰った。芥川も猫顔が好きらしい。


 しかしべた惚れはしない。

 ただ半之丞の夢中になっていたお松の猫殺しの話だけはつけ加えておかなければなりません。お松は何でも「三太」と云う烏猫を飼っていました。ある日その「三太」が「青ペン」のお上の一張羅の上へ粗忽をしたのです。ところが「青ペン」のお上と言うのは元来猫が嫌いだったものですから、苦情を言うの言わないのではありません。しまいには飼い主のお松にさえ、さんざん悪態をついたそうです。するとお松は何も言わずに「三太」を懐に入れたまま、「か」の字川の「き」の字橋へ行き、青と澱んだ淵の中へ烏猫を抛りこんでしまいました。それから、――それから先は誇張かも知れません。が、とにかく婆さんの話によれば、発頭人のお上は勿論「青ペン」中の女の顔を蚯蚓腫れだらけにしたと言うことです。

(芥川龍之介『温泉だより』)

 やはりどこか猫を突き放している。猫好きの人は、道を歩いていて猫の鳴き声が聞こえるとつい立ち止まる。猫が道ばたて寝ているとついスマホで写真を撮る。芥川にはそういうところがない。芥川はスマホを持っていなかったからだ。

 という話でもなくて、猫の俳句もこれだけしかないんだな。

かげろふや猫にのまるる水たまり

餅花を今戸の猫にささげばや

 全然飼っている感じがしない。


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