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芥川龍之介の『さまよえる猶太人』をどう読むか⑦兼『奉教人の死』をどう読むか③兼『きりしとほろ上人伝』をどう読むか② 逆にこうも言える
昨日、『きりしとほろ上人伝』において平安時代のエジプトに現れる少年「えす・きりしと」は『トマスによるイエスの幼児物語』に現れる幼いイエスのように残酷であり、『さまよえる猶太人』に現れる「呪うキリスト」に似た雰囲気を持っており、形式的には「えす・きりしと」こそが「さまよえる猶太人」になってしまっていると書いた。
では、十歳にもならない「えす・きりしと」を描くことは、十二歳以降のキリストしか登場しない新約聖書に対して聊か挑戦的ではあるとして、そして形式的に「えす・きりしと」を「さまよえる猶太人」に仕立ててしまったとして、それだけが芥川自身を納得させた文学的成功と言えるだろうか。
本人が参照しているかどうかは別にして「さまよえる猶太人」の伝説も外典としての『トマスによるイエスの幼児物語』も既にこの世にあるのだから、この二つを組み合わせただけならば、むしろお話としてよくできているのは『奉教人の死』であり、『きりしとほろ上人伝』は結びのぼんやりした感じが物足らないように思えてくる。
形式的に「えす・きりしと」を「さまよえる猶太人」に仕立ててしまったこと、十歳にもならない「えす・きりしと」を平安時代のエジプトに持ってくること、この意匠には確かに芥川らしい機知と皮肉がある。
特に十歳にもならない「えす・きりしと」という正式には語り残された存在、しかも過去にはあったかもしれないが既に存在はしていない過渡的な存在を平安時代のエジプトに持ってくる大胆さは、(そういう種本を見つけたとしても)例えば『寒山拾得』のような時空のねじれを遊ぶ大胆なやり方だとして評価できる。芥川独自の意匠乍ら『藪の中』ほど注目されないものの、この『寒山拾得』の時空のねじれを遊ぶという手法は実に面白い。確かに物語を破綻させかねないところで「美味しいところを摘まむ」ようにしてお話を作るという意味では、時空のねじれを遊ぶという手法は絶妙な器用さを要求して甚だ文学的な技巧である。(したがってなかなか真似されない。)これが見事に嵌ったと見做せば、確かに『きりしとほろ上人伝』は優れた作品であると言えるだろう。
そしていつもの芥川の逆説もある。
「さもあらうず。おぬしは今宵と云ふ今宵こそ、世界の苦しみを身に荷うた『えす・きりしと』を負ひないたのぢや。」
十歳にならない彼はまだ十字架を背負っていない筈だし、これが平安時代なら彼はもう十字架を背負っている。この何とも言えぬ矛盾が味わいだろう。
またここで「苦しみ」といい「罪」とは言わない捻じれ、「えじつと」から流沙河を渡り「われらが父のもとへ帰らうとて」と言わせるところなど、なんとも情報量が多くこんがらがったところはいかにも芥川らしい。
そもそも九メートルを超える大男の話という無茶も良い。
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しかしキリスト教を根本から覆すような結論ではないことをどう見ればよいのだろうか。
心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。
この言葉は山に登って語られた。その言葉が川べりに当てられることは洒落ではあろうが、「豊胸人の死」ほどのひねりがない。
「はてさて、おぬしと云ふわらんべの重さは、海山量り知れまじいぞ。」とあつたに、わらんべはにつこと微笑んで、頭上の金光を嵐の中に一きは燦然ときらめかいながら、山男の顔を仰ぎ見て、さも懐しげに答へたは、
「さもあらうず。おぬしは今宵と云ふ今宵こそ、世界の苦しみを身に荷になうた『えす・きりしと』を負ひないたのぢや。」と、鈴を振るやうな声で申した。……
やはりここではなかろうか。「さも懐しげ」とは以前にもこの山男と遠い昔に会っていたということなのだろうか。いや、そうではなく、ここはやはり自らが世界の苦しみを身に荷になうた過去を懐かしんでいるのだろう。つまり「えす・きりしと」は「きりしとほろ」に再び十字架を背負わせたのだ。
この「きりしとほろ」という洗礼名に関しては種本からΧριστόφορος キリストを身に帯びる人、キリストを抱く人、キリストを背負うものという意味だとされている。つまり洗礼された時から「きりしとほろ」が「えす・きりしと」を背負うところまでは御約束なのだ。
問題は矢張り何故往生したのか、というところの曖昧さなのではなかろうか。あるいはこの何故往生したのか、というところを曖昧としか理解できない読者の読み方が問題なのではなかろうか。
ここには曖昧な往生ではなく芥川らしいロジックがあるのかないのか、今日の私には解らない。ただそれ以降、誰しもが渡しのいなくなった流沙河を渡ることが困難なことだけが解る。
それにしても流沙河って『西遊記』か。
[余談]
メシアの法では、シャンバラには芥川龍之介や川端康成が出入りしているとあります。なぜなのかと法談で出たのですが、このおふたりは、霊言や先生の発言のニュアンス、また、生前の文献から見て、釈尊と老子の分身か分霊でしょう。川端康成は生前35歳の時からそれを認識していたように綴ってます。 https://t.co/OpeaT07H2s
— 🌏Ennea🕊️ (@777_ekam) April 22, 2023
ふーん。
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