※その前に↑を読め
変革の思想
この理屈は磯部浅一一等主計にちなんで言われたもののようだが、実は何度読み返しても良く解らない。一見天皇が変革のダイナモのような言われ方をしているように見えなくもない。しかし二・二六事件の首謀者の全体意見からはそうした天皇の位置づけは見えてこないからだ。
平野啓一郎も「三島由紀夫はこう書いている」という表層的な理解はしている気配はあるもののその意図を捉えきれていないようだ。
概ね間違っていないようだが「純粋な道義」といった時点で解っていないことが解る。道義は純粋でなくとも構わないのだ。ただ常に「本来の」とい言い張れば済むことなのだ。それに解っていないので書き方が小難しそうになっている。道義は理想である。理想の実現は難しいということをそんなにややこしく書くかね?
こうして二・二六事件の首謀者の代表意見を確認してみると「進展」とは言っているけれどここに「絶えざる変革」というニュアンスはない。
で問題は「万邦に向つて開顕進展を遂ぐべき」というのはいわば戦争の準備のために国家総動員できる体制を構築し、軍拡せよと言っているわけだという点にある。ナチスかぶれの軍閥が戦争を始めようとしたわけではなく、この青年将校らは八紘一宇を完うするの国体=皇道政府と強い軍隊を目指そうとしていたわけで、この点においては『英霊の声』の言い分とは少し違いが見られる。
そして少なくともここに「国体思想イコール変革の思想」という筋は見えない。今皇道政府と強い軍隊が必要だと言っている訳で、それは確かに変革ではあるけれど、国体とは本来そうあるべきところというニュアンスが強い。
ここでも国体を守る、と言っており、国体が変革の原動力という考えは見えない。しかし守ると言いながらも変革が求められている。この「守ると言いながらも変革が求められている」という担がれやすい性質が国体の正体なのであろうか。なんでもねじ曲がっている、本来はこうあるべきだと言っていれば変革の根拠になりうるというわけか。
担がれている。
ここでもはっきり天皇は国体であると言っているが、「護持」と言っており、変革のイメージがまるでない。イメージはまるでないけれど言われていることは確かに変革である。天皇をだしに、本来はこうあるべきだと、今の状況を変化させようとしている。無論決して過度な要求はない。天皇に祭司的な役割を負わせているだけだ。神話を否定した天皇が、現実的には古来のおまじないのような儀式を現に続けていることを鑑みれば、三島天皇論はむしろ現状肯定である。神話を否定したんなら全国のインチキな神社はすべて取り壊せと言わないところが大人である。
表向きの三島国体論はほぼこの太宰治の『惜別』の範疇に収まるような素朴なものに感じられる。三島由紀夫を読むものは太宰治を読まないという妙な傾向があるので殆どこの指摘はされない。しかし三島由紀夫の国体論はたまたまか必然的にか、この本来帰るべき場所としての国体論をベースにしている。
そしてやはりこの国体論には変革のイメージではなく「皇室に帰一し奉る」という集合場所と言うか目印と言うか、それこそ天皇の馬前であったり、宮城といった位置のことではないかと思える。しかし結果として国体が御一新の原動力になっている。
例えば倒幕思想は、国体の護持の為の国家転覆思想の一つであったと考えてよかろう。ここでは国体思想が天皇を中心に変革の役割を果たした。天皇が永遠の現実否定して来たとも思えないけれども、少なくとも現実的にはただ一度は国体が国家を変革したのである。
ただ基本国体とは不変であるべきものだ。あるべきものだがなかなかあるべき状態にならない。なぜならどのような状態になっても「違う違うそうじゃない」と文句を言うものがいるからだ。つまり国体とは本来あるべき天皇で、千五百年生きて、ぴかーっと光って、国民を誰一人飢えさせてはいけなくて、なんなら地震も起こさせてはいけないのだ。つまり本来の国体=ありうべき、あり得ない天皇なのだ。
国体は天皇だ。やはり冒頭に挙げた三島の国体論はその他さまざまな三島の国体観ともずれており、極端に異質で、誰とも折り合いがつけられない屁理屈に見える。「永遠の現実否定」たる天皇などというものは本来存在しなくて、国体=ありうべき、あり得ない天皇なのであり、「永遠の現実否定」たる天皇というのは三島由紀夫の言いがかりに過ぎない。何かまずいことがあると国体を護れと言って本来の国体でないことが指摘されうる。何が起きても文句を言われるのが天皇という理屈が三島の国体論である。それではあまりに天皇が気の毒だ。それこそ天皇が屁をこいても三島には叱られそうだ。
しかしこれはごくマイルドにしてみれば全然理解できない考えというわけでもない。天皇制とは『続日本紀』なんかを読めば確かに天皇と民草の関係において自然発生的にか制度としてか、現実的に続いてきた信頼関係のようなもので、「なゐふる」、つまり地震が起こると賑給たまはる(特別一時給付米がもらえる)、とか吉祥の白い蛇が見つかると天皇に献上されるとか、そういうお互いがお互いをいつくしみ・あがめる形で天皇はお上として機能してきたわけだ。
保育園落ちた、日本死ねというような純粋と言うか単なるあほな言説が「永遠の現実否定」である。冒頭の三島由紀夫の理屈では天皇はそこまで面倒を見なくてはならないことになってしまうが、三島天皇論はそこまであほではない。つまりいい感じに変革したらあとは現状維持でいいので、「永遠の現実否定」としての天皇ではなくなってしまう。そりゃ何でも文句つけようとしたらあるよ。犬猫の処分ゼロにしろとか、ベンチが少ないとか、そういうことまで含めての永遠の現実否定を天皇に押し付けるのかね? そりゃないよね。三島由紀夫だけは天皇が本当はただのヒトであり、永遠なんてものはないということを知っていたのだ。
しかし最初のところに戻って「国体思想そのものの裡にたえず変革を誘発する契機があって、むしろ国体思想イコール変革の思想」という考え方が、担がれるものが神輿で、神輿は担がれるものといいう理屈に収まるかどうかは怪しいところだ。
三島自身の最後の言葉でも「国体思想そのものの裡にたえず変革を誘発する契機があって」という発想に反して、変革が外因性であることを認めている。
国体思想が変革の契機だという理屈を通すとすれば、外圧に対する揺り戻しの根拠が国体である、とでも言ってみるしかないが、やはりここいらの定義はもう少しすっきりした形でまとめ直さないとどうにもならないように思える。何度も書いたが解ってはいけないことを解ってしまうのも駄目なことである。
[附記]
最後の言葉だけ読むと天皇あるいは国体というのは変革の契機ではなくてむしろ防御側、免振装置みたいなものに見えるんだよなあ。「変革を誘発する契機」を担がれやすさにしてしまうと、それは内部ではなくて外部なんだよな。
ところで、「蹶起趣意書」を実際に読むと難しい言葉がたくさん出てきてびっくりするでしょ。現実に危機は目の前に迫っていたわけで、彼らも馬鹿ではなく、真剣に日本のことを考えていた。「露、支、英、米との間一触即発して祖宗遺垂の此の神洲を一擲(いってき)破滅に堕せしむは火を睹るより明かなり」って実際そうなっちゃったしね。
そんな彼らが愛した日本のためにも平野啓一郎の『三島由紀夫論』は改められるべきなんだよなあ。