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何の言い訳にもなっていない 芥川龍之介の俳句をどう読むか36
しぐるるや堀江の茶屋に客ひとり
これも冬の時雨を詠んだ句であろう。
芥川はその古さの中に新しさを搜る銳い爪を有つてゐる。芥川の爪は時に閑暇を得るときに木の肌や人事の線渺の中に搔き立てられてゐる。
彼の好んでつかふ古調は時に發句に皮かぶりの古さをつけないことも無いではない。別離の句に、「霜のふる夜を菅笠のゆくへ哉」の如き離愁は一應その氣もちは分りながらも菅笠の如きは、餘りに古きに從ひ過ぎ做ひ過ぎるやうである。「しぐるるや堀江の茶屋に客ひとり」の情景にしても、そのまま取入れられるにしても這入り過ぎてゐる調子ではないか。
皮かぶりの古さは良かった。全集では「堀江」に注がつき、「待合茶屋多し」と上品に誤魔化されているが、堀江の茶屋は元禄からの遊里である。
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さて、この句の味わいは、子規の、
星月夜星を見にゆく岡の茶屋
……のように「しぐるるや」がまるで何の言い訳になっていないところである。而比再得時雨宿宿潤澤と『後漢書』にあるから、しぐれなければ茶屋に逃げ込まなかったというならは、堀江にいる必要もなかろう。十月雨間も置かず降りにせば何れの里の宿か借らまし、というわけではないのだ。わざわざ堀江に来ている訳だから。
あるいはしかし、
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この漱石の句のように、縄のれんを潜ったところであれば、芥川の性欲は無視していいものであろうか。
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茶屋とは油揚げを食わせるところだと奥さんに言い訳するのに漱石と子規の共謀が少しは役に立つかもしれない。
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あるいは、蕪村の、
しぐるゝや我も古人の夜に似たる
的な意味で、室生犀星の言うところの「皮かぶりの古さ」を遊んだと言い訳するか。
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一人かもねむと言い訳するか。
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それにしても当時の茶屋のシステムが解らないが、泊りになると名前を名乗らなくてはならないものか。「僕、芥川龍之介です」と言うのだろうか。
ちなみに漱石が
しぐるゝや油揚烟る縄暖簾
と詠んだのが二十八の時。芥川が堀江の茶屋に行ったのも二十八歳の時のことだとされているが、そんなものは関係なかろう。
とにかく、
しぐるるや堀江の茶屋に客ひとり
……は「しぐるるや」が何の言い訳にもなっていなくて、なんなら季語でさえもない句だ。その何の言い訳にもなっていない「しぐるるや」が面白い。サッカーでセンターフォワードが目の前にパスが来たのを空振りして「急に目の前にボールが来たから……」と言い訳しているようなものだ。
晴れてなお堀江の茶屋に客ひとり
なのだ。
茶屋も堀江も客も季語にはならない。
あえて言えば尾崎放哉の
咳をしても一人
的な意味で「ひとり」に冬を感じてもいいが、それはさすがに行き過ぎだろう。
季語がないなら、皮かぶりの古さどころか、若い性慾で自由に詠んだ句とも言えようか。
しぐるるや堀江の茶屋に客ひとり
というのも嘘で、
しぐるるや堀江の茶屋に客二人
なのであろうが、そこはまあ巻沿いを避けたというところか。
しぐるるやいなや駆け込む茶屋の軒
でもなく、
たまさかに堀江の茶屋に客ひとり
と惚けているのが可愛い句である。
【余談】
ベルグソンがかういふ「記憶」の問題をどう取扱つてゐるかと云ふことを知れば一層興味がありさうに思へるが、僕は殘念ながらこの問題に今は立入れない。しかし、ベルグソンと云へば、僕は、數年前澄江堂の藏書を整理してゐるうちに、ふとベルグソンの「形而上學序説」の英譯本の餘白に見出した數行の書入れを思ひ出す。なんでもベルグソンの哲學は「美しい透明な建築を見るやうな感じだ」と云ふやうな意味が記されてあつたやうに記憶してゐる。そして僕は長いことこの芥川さんの言葉を忘れてゐたのであるが、最近プルウストを讀み出してゐるうちにひよつくりそれを思ひ出した。さういふ全體の感じなどに、或は、プルウストとベルグソンとは何處となく一味相通じたところもあるのかも知れない。
前にも少し触れたが、芥川がベルクソンに関して「美しい透明な建築を見るやうな感じだ」と感想を書き残していたとしたら、なかなか興味深い。
この時空の感覚が悪戯でないとも考えられるからだ。なかなか同型の作品が見つからないので、時空の問題はもう少し深堀したいところだ。
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