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岩波書店・漱石全集注釈を校正する47 行屎走尿はだまを出さない現実世界

行屎走尿


 彼の心は底のない嚢のように行き抜けである。何にも停滞しておらん。随処に動き去り、任意に作なし去って、些の塵滓の腹部に沈澱する景色がない。もし彼の脳裏に一点の趣味を貼し得たならば、彼は之く所に同化して、行屎走尿の際にも、完全たる芸術家として存在し得るだろう。余のごときは、探偵に屁の数を勘定される間は、とうてい画家にはなれない。

(夏目漱石『草枕』)

 岩波書店『定本 漱石全集第三巻』注解は、

行屎走尿  排便排尿。「屁」からの連想で、日常のありふれた行為をさす。禅宗では「屙屎送尿」という。

(『定本 漱石全集第三巻』岩波書店 2017年)

 ……としている。「行屎走尿」の方が一般的か。

 主人のように裏表のある人間は日記でも書いて世間に出されない自己の面目を暗室内に発揮する必要があるかも知れないが、我等猫属に至ると行住坐臥、行屎送尿ことごとく真正の日記であるから、別段そんな面倒な手数をして、己の真面目を保存するには及ばぬと思う。日記をつけるひまがあるなら椽側に寝ているまでの事さ。

(夏目漱石『吾輩は猫である』)

 ここでもやはり日常のふるまいの意味で使われているようだ。ではあるが、とても大切なことなのだ。

 先達って友人が来てこんな話をした。小田原で暴風雨があった時、村の漁船が二三杯沖へ出て居て、どうしても濤を凌いで磯へ帰る事が出来ない。村中一人残らず渚へ出て焚火をして浮きつ沈みつする船を眺めて居る許りである。此方から繩を持って波を切って、向うの船へ投げ込んで、其繩を引いて陸へ上げるのが彼等の目的である。がそう思う様に目的は達せられんので晩からかけて翌日の午後の三時頃迄は村中浜へ総出の儘まま風の中、雨の中を立ち尽して居た。所が其長時間のうち誰一人として口を利いたものがない又誰一人として握り飯一つ食ったものがないとの事である。こうなると行屎走尿すら便じなくなる。余裕のない極端になる。大いに触れてくる。同時に眼前焦眉の事件以外何にも眼に這入らなくなる。世界が一本筋になる。平面になる。寝返りも出来ない様に窮屈になる。なっても構わないがそれ許りが小説になると云う議論がどうして出来る。世の中は広い。広い世の中に住み方も色々ある。其住み方の色々を随縁臨機に楽しむのも余裕である。観察するのも余裕である。味わうのも余裕である。此等の余裕を待って始めて生ずる事件なり事件に対する情緒なりは矢張り依然として人生である。活溌々地の人生である。描く価値もあるし、読む価値もある。触れた小説と同じく小説になる。或人は浅いと云うかも知れない。浅いと云う点に於いては余も同感である。然し価値がないと云う意味に於て浅いと云うなら間違って居る。此場合に於ける深いとか浅いとか云うのは色の濃いとか薄いとか云うのと一般で、濃いから上等で薄いから下等と云う評価のつけられる訳のものでは勿論ない如く毫も作物を高下する索引にはならないのである。

(夏目漱石『高浜虚子著『鶏頭』序』)


「平常無事、屙屎送尿、著衣喫飯」の「屙屎送尿」に対して「自然に排泄して」という訳もある。これは日常のありふれた行為でもあるが、またそれこそが大切なことだという意味もある。ここをもう少し強調したい。禅語の「屙屎送尿」にこそ、これが実は大切なことなのだという意味が込められているからだ。
 これに対して、


草枕 : 新註 竹野長次 編精文館書店 1928年

 このような解釈もあるが、それは人によって異なるだろう。


ただ男だけにそこまではだまを出さない


「那美さんが軍人になったらさぞ強かろう」兄さんが妹に話しかけた第一の言葉はこれである。語調から察すると、ただの冗談とも見えない。
「わたしが? わたしが軍人? わたしが軍人になれりゃとうになっています。今頃は死んでいます。久一さん。御前も死ぬがいい。生きて帰っちゃ外聞がわるい」
「そんな乱暴な事を――まあまあ、めでたく凱旋をして帰って来てくれ。死ぬばかりが国家のためではない。わしもまだ二三年は生きるつもりじゃ。まだ逢える」
 老人の言葉の尾を長く手繰ると、尻が細くなって、末は涙の糸になる。ただ男だけにそこまではだまを出さない。久一さんは何も云わずに、横を向いて、岸の方を見た。

(夏目漱石『草枕』)

 この「だまを出さない」に対して、岩波書店『定本 漱石全集第三巻』注解は、このような注釈をつける。

だまを出さない  凧を上昇させるために糸を繰り出すことを「だま」といい、「だまをくれる」、「だまをやる」などの言い方をする。「だまを出す」は凧糸をすべて出し切ること。ここでは前に「言葉の尾を長く手繰」、「涙の糸」とあることから縁語として用いられ、心の底をさらけ出さない、というほどの意味。 

(『定本 漱石全集第三巻』岩波書店 2017年)

……なるほど。

草枕 : 新註 竹野長次 編精文館書店 1928年

 この註釈とよく似ている。
 そっくりだ。まあ、それはいいだろう。
 しかし、その膨らませた部分、「だまをくれる」「だまをやる」の用例こそが国立国会図書館デジタルライブラリーの中で引っかかって来ない。

言泉 : 日本大辞典 第3巻 落合直文 著大倉書店 1922年

凧あげの時のように、ものをあやつる糸をのばす。だまをやる。転じて、だます、ごまかすの意。
※俳諧・花月六百韻(1719)花「だまをくるればあちらから又〈春釣〉 まくられて朝日をかざすあさはつね〈古連〉」

https://kotobank.jp/word/%E3%81%A0%E3%81%BE%E3%82%92%E3%81%8F%E3%82%8C%E3%82%8B-2060451

 その他の主要な国語辞典には「だまをくれる」「だまをやる」の解説はない。
 唯一見つかる精選版 日本国語大辞典の「だまをくれる」「だまをやる」の解説としてはむしろ「だます、ごまかすの意」になってしまう。

 ここは少々混乱しているのでゆっくりやりますよ。ロジカルに考えて下さい。

 まず岩波が書いているように

①「だまを出さない」→「心の底をさらけ出さない」

 ……だとした場合、その反対は、

②「だまを出す」→「心の底をさらけ出す」

 ……となる筈。

 しかし、

③「だまを出す」≒「だまをくれる」≒「だまをやる」

 ……とした場合、

④「だまをくれる」≒「だまをやる」→「だます、ごまかすの意」→「心の底をさらけ出さない」

 ……なので、

⑤「だまを出さない」→「だまさない、ごまかさない」→「心の底をさらけ出す」

 ……と逆の意味に転じてしまう。

 結果として久一さんは自分の気持ちを胡麻化したのだから「だまをくれる」「だまをやる」になってしまい、「だまをくれる」「だまをやる」と同義の「だまを出す」の反義語「だまを出さない」にはならないのではないか。

 この混乱を回避しようとするならば、無理に付け足した「だまをくれる」「だまをやる」の説明をそっと引っ込め、竹野長次氏の名前を挙げ、その註釈を書き写すのが良いのではなかろうか。
 何でも付け足せばいいというものではない。


現実世界

 

 老人は当人に代って、満洲の野に日ならず出征すべきこの青年の運命を余に語げた。この夢のような詩のような春の里に、啼くは鳥、落つるは花、湧くは温泉のみと思い詰つめていたのは間違である。現実世界は山を越え、海を越えて、平家の後裔のみ住み古るしたる孤村にまで逼る。朔北の曠野を染むる血潮の何万分の一かは、この青年の動脈から迸しる時が来るかも知れない。

(夏目漱石『草枕』)

 岩波書店『定本 漱石全集第三巻』注解は、

現実世界 冒頭からの山里に対比される下界、文明社会。それが自然から切り離された世界であることが力説されている。

(『定本 漱石全集第三巻』岩波書店 2017年)

 ……と読む。いや少し意地悪をした。注が付いたのは以下の「現実世界」である。

 いよいよ現実世界へ引きずり出された。汽車の見える所を現実世界と云う。汽車ほど二十世紀の文明を代表するものはあるまい。何百と云う人間を同じ箱へ詰めて轟と通る。情け容赦はない。詰め込まれた人間は皆同程度の速力で、同一の停車場へとまってそうして、同様に蒸気の恩沢に浴さねばならぬ。人は汽車へ乗ると云う。余は積み込まれると云う。人は汽車で行くと云う。余は運搬されると云う。汽車ほど個性を軽蔑したものはない。文明はあらゆる限りの手段をつくして、個性を発達せしめたる後、あらゆる限りの方法によってこの個性を踏み付けようとする。

(夏目漱石『草枕』)

 この汽車が見える「現実世界」は注釈の通りでいいだろう。よくよく考えてもみれば意地の悪いのは注釈者だ。誰でもわかるところに注を付けて、難しい方に注を付けない。
 この最初の方の、あるいは漱石作品全体の用語としての「現実世界」は実に独特なものであることを確認しておきたい。

 現代では地上から遥かな高みにズームアウトして、またズームインするようなカメラ演出がごく当たり前に見られる。最初に引用とした「現実世界」においてはあくまで意識の中でのことながら、独特の広い空間認識が行われていることが分かるだろう。
 これは自働車を運転する、あるいは電車で長距離を移動する人にとっては当たり前の空間認識かもしれないが、たとえば近所の商店街と新宿、原宿、渋谷、恵比寿、目黒、浜松町……と地図が頭に入っていて、位置関係が生なましく地続きになっている人がいると思う。
 最初の「現実世界」は目の前に見える範囲ではなく、観念上の広大な空間である。

 この劇烈な活動そのものがとりもなおさず現実世界だとすると、自分が今日までの生活は現実世界に毫も接触していないことになる。

(夏目漱石『三四郎』)

要するに自分がもし現実世界と接触しているならば、今のところ母よりほかにないのだろう。その母は古い人で古いいなかにおる。そのほかには汽車の中で乗り合わした女がいる。あれは現実世界の稲妻である。

(夏目漱石『三四郎』)

 しかし望遠鏡の中の度盛りがいくら動いたって現実世界と交渉のないのは明らかである。野々宮君は生涯現実世界と接触する気がないのかもしれない。

(夏目漱石『三四郎』)

 活動の激しい東京を見たためだろうか。あるいは――三四郎はこの時赤くなった。汽車で乗り合わした女の事を思い出したからである。――現実世界はどうも自分に必要らしい。けれども現実世界はあぶなくて近寄れない気がする。

(夏目漱石『三四郎』)

 これらの「現実世界」はどれも同じではない。何故なら、

 三四郎には三つの世界ができた。一つは遠くにある。与次郎のいわゆる明治十五年以前の香がする。すべてが平穏である代りにすべてが寝ぼけている。もっとも帰るに世話はいらない。もどろうとすれば、すぐにもどれる。ただいざとならない以上はもどる気がしない。いわば立退場たちのきばのようなものである。三四郎は脱ぎ棄てた過去を、この立退場の中へ封じ込めた。なつかしい母さえここに葬ったかと思うと、急にもったいなくなる。そこで手紙が来た時だけは、しばらくこの世界に低回して旧歓をあたためる。

(夏目漱石『三四郎』)

 こうも書かれるからだ。現実世界は主人公の観念の中にあるようで、なお矛盾するようでもあるが、古典的実在論者の説いたようにいかめしく外在する。

自分の世界現実世界は、一つ平面に並んでおりながら、どこも接触していない。そうして現実世界は、かように動揺して、自分を置き去りにして行ってしまう。

(夏目漱石『三四郎』)

 このようにも書かれる。そうかと思えば世界の中に宇宙が含まれる。

年の若い彼の眼には、人間という大きな世界があまり判切分らない代りに、男女という小さな宇宙はかく鮮やかに映った。

(夏目漱石『彼岸過迄』)

愛の心に映る宇宙は深き 情けの宇宙である。

(夏目漱石『野分』)

 漱石には宇宙が見える。「もっとも彼がフケだらけの頭の裏 には宇宙の大真理が火の車のごとく廻転しつつあるかも知れないが、」とした吾輩の予想は当たっている。漱石の「現実世界」は多義的で、宇宙を内包し、発展し、時に宇宙と入れ替わる。

 いま先方門野を呼んで括り枕を取とり寄せて、午寐を貪つた時は、あまりに溌溂たる宇宙の刺激に堪えなくなつた頭を、出来できるならば、蒼い色いろの付ついた、深い水の中に沈めたい位に思つた。

(夏目漱石『それから』)

 漱石の現実世界では始終宇宙が現れる。それは月の裏側ではなく、目の前にふわふわ浮かんでいるものなのだ。


[余談]

 無駄な学問をするという意味での「木簡を読む」というネットスラングが生まれかけている。

 両極端な議論だが、確かに実際に木簡を掘り出して読むような研究者は楽ではなかろうし、そういうことを無駄と感じる人も少なくなかろう。

 木簡どころか夏目漱石作品でさえ、誰にも読めないのだから。「木簡を読む」という言葉がいささか極端で滑稽に思えるのは錯覚で、「近代文学を読む」という言葉ほど非現実的なものはないかもしれない。

 それは「noteを読む」くらい非現実的なことなのかも。





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