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『彼岸過迄』を読む 4355  時系列で整理しよう④ 市蔵は百代子に嵌められた

 以前

 千代子と高木の二人の交際は百代子と高木秋子が手を組んだ結果としか考えられません。そう気が付いてみるとここに世話焼きの百代子の本音が現れているように思えてきます。
イ) 姉と須永市蔵の煮え切らない関係にはっぱをかけようと刺激材料を持って来た
ロ) 小間使いの子である須永市蔵を排除し、姉に好男子をあてがおうとした

 として、百代子が千代子と高木の交際を取り持ったのではないかという話を書きました。須永市蔵は田口家の正月の歌留多にも呼ばれないので、百代子からは嫌われていたのではないかと。

 この点、よくよく読んでみると百代子はもう少し意地が悪いのかもしれません。おそらく鎌倉の避暑に来るように高木に連絡したのは百代子です。関係性からするとそうなります。
 そしてこんなこともしていました。

 僕が大学の三年から四年に移る夏休みの出来事であった。宅の二階に籠ってこの暑中をどう暮らしたら宜かろうと思案していると、母が下から上って来て、閑になったら鎌倉へちょっと行って来たらどうだと云った。鎌倉にはその一週間ほど前から田口のものが避暑に行っていた。元来叔父は余り海辺を好まない性質なので、一家のものは毎年軽井沢の別荘へ行くのを例にしていたのだが、その年は是非海水浴がしたいと云う娘達の希望を容れて、材木座にある、ある人の邸宅を借り入れたのである。移る前に千代子が暇乞いかたがた報知に来て、まだ行っては見ないけれども、山陰の涼しい崖の上に、二段か三段に建てた割合手広な住居だそうだから是非遊びに来いと母に勧めていたのを、僕は傍で聞いていた。それで僕は母にあなたこそ行って遊んで来たら気保養になってよかろうと忠告した。母は懐から千代子の手紙を出して見せた。それには千代子と百代子の連名で、母と僕にいっしょに来るようにと、彼らの女親の命令を伝えるごとく書いてあった。母が行くとすれば年寄一人を汽車に乗せるのは心配だから、是非共僕がついて行かなければならなかった。変窟な僕からいうと、そう混雑した所へ二人で押しかけるのは、世話にならないにしても気の毒で厭だった。けれども母は行きたいような顔をした。そうしてそれが僕のために行きたいような顔に見えるので僕はますます厭になった。が、とどのつまりとうとう行く事にした。こう云っても人には通じないかも知れないが、僕は意地の強い男で、また意地の弱い男なのである。

(夏目漱石『彼岸過迄』)

 ここなんですが、わざわざ漱石は「千代子と百代子の連名」にしています。ここで「千代子と百代子の連名」にあえてしたのは、百代子の関与を明確にしたかったからですね。

 まず鎌倉への海水浴が「娘達の希望」です。「達」なんです。千代子と百代子です。
 おそらく鎌倉の避暑に来るように高木に連絡したのは百代子です。
 そして千代子は須永市蔵の母に鎌倉の避暑に来るように勧めていました。
 手紙は「千代子と百代子の連名」でした。

 高木は、

 僕は初めて彼の容貌を見た時からすでに羨ましかった。をするところを聞いて、すぐ及ばないと思った。それだけでもこの場合に僕を不愉快にするには充分だったかも知れない。けれどもだんだん彼を観察しているうちに、彼は自分の得意な点を、劣者の僕に見せつけるような態度で、誇り顔に発揮するのではなかろうかという疑が起った。その時僕は急に彼を憎み出した。そうして僕の口を利くべき機会が廻って来てもわざと沈黙を守った。

(夏目漱石『彼岸過迄』)

 こうある通り、「知的なイケメン」でしょう。さらに

 僕が百代子から聞いたのでは、亜米利加帰りという話であった彼は、叔母の語るところによると、そうではなくって全く英吉利で教育された男であった。叔母は英国流の紳士という言葉を誰かから聞いたと見えて、二三度それを使って、何の心得もない母を驚ろかしたのみか、だからどことなく品の善いところがあるんですよと母に説明して聞かせたりした。母はただへえと感心するのみであった。

(夏目漱石『彼岸過迄』)

 おそらく英国流の紳士で実際家です。どこぞの高等遊民の引きこもりとは大違いです。その「知的なイケメン」の英国流の紳士で実際家を百代子はわざわざ呼び出して市蔵に引き合わせています。強敵です。そもそも百代子はずいぶん市蔵を脅かしていました。

 実を云うと、僕はこの高木という男について、ほとんど何も知らなかった。ただ一遍百代子から彼が適当な配偶を求めつつある由を聞いただけである。その時百代子が、御姉さんにはどうかしらと、ちょうど相談でもするように僕の顔色を見たのを覚えている。僕はいつもの通り冷淡な調子で、好いかも知れない、御父さんか御母さんに話して御覧と云ったと記憶する。

(夏目漱石『彼岸過迄』)

 これが単なる「無神経」でないことは、鎌倉でのこんなシーンが証明しています。

 夕方になって、僕は姉妹と共に東京から来るはずの叔父を停車場に迎えるべく母に命ぜられて家を出た。彼らは揃いの浴衣を着て白い足袋を穿いていた。それを後から見送った彼らの母の眼に彼らがいかなる誇として映じたろう。千代子と並んで歩く僕の姿がまた僕の母には画として普通以上にどんなに価が高かったろう。僕は母を欺く材料に自然から使われる自分を心苦しく思って、門を出る時振り返って見たら、母も叔母もまだこっちを見ていた。
 途中まで来た頃、千代子は思い出したように突然とまって、「あっ高木さんを誘うのを忘れた」と云った。百代子はすぐ僕の顔を見た。僕は足の運びを止めたが、口は開かなかった。「もう好いじゃないの、ここまで来たんだから」と百代子が云った。「だってあたし先刻誘ってくれって頼まれたのよ」と千代子が云った。百代子はまた僕の顔を見て逡巡った

(夏目漱石『彼岸過迄』)

 百代子は実験でもするように市蔵を観察しています。そして一見市蔵に肩入れしたかのような「もう好いじゃないの、ここまで来たんだから」という百代子の台詞は、しっかり者の長女たる千代子の性格を見抜いてのことだとしたらどうでしょう。もし、百代子が市蔵に肩入れしていて、市蔵の味方なら「だってあたし先刻誘ってくれって頼まれたのよ」と千代子が言った後、可哀相な市蔵からは目を逸らすのではないでしょうか。ここでの百代子の躊躇いはどこまで追い詰めるかという点にあったのではないでしょうか。

 いやそれもこれも手紙が「千代子と百代子の連名」でなければ、たまたまで済ませられます。百代子は敢えて市蔵に「知的なイケメン」の英国流の紳士で実際家をぶつけてきて反応を見ているわけです。悪いか悪くないかの話でいえば灰色です。しかし結果として市蔵は卑怯な嫉妬深い男として撃沈してしまいます。

 百代子の意図とは無関係に、百代子の拵えた設定の中で敗北してしまいます。漱石が「千代子と百代子の連名」と書いたのは百代子を悪く見せるためではないでしょう。しかし結果的に、鎌倉の海水浴で市蔵は百代子に嵌められたのだ、とは言ってよいと思います。


[余談]

 文学たんはいつも真っ当な文学観を語っているけれど、やはりこうした分類はなかなか難しいんじゃないかと思う。

 そもそも「思想がない」と言われる谷崎純一郎には、これまた思想とは言い難い日本の土着的なものがしみ込んだ泉鏡花的なところもあり、「唐」ではない当時の支那に対するあこがれがあり、クラフト・エビングのようなある意味の西洋思想に毒されたところもある。
 
 この点ハイカラで西洋的なものを受け入れた稲垣足穂の『少年愛の美学』がナボコフやクラフト・エビングのような西洋的な概念を歯牙にもかけない伸びやかさで少年愛を定義し、A感覚とV感覚の価値の転倒を試み、宇宙ロケットまでも手に入れたことは興味深い。

 尾崎紅葉の『金色夜叉』が井原西鶴的な色彩を持ちながら実は西洋の小説の翻案であるも、樋口一葉が日本土着的であるがために、饗庭篁村とともにBグループに入れられるのかなと考えてしまうと少しおさまりが悪い。

 Aグループには坪内逍遥、二葉亭四迷、正宗白鳥らが這入るのだろうか。

 それにしてもアイヌに肩入れした幸田露伴の立ち位置が怪しい。



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