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谷崎潤一郎の『襤褸の光』を読む 翌年は米騒動だ。皇軍兵士は民衆に大砲を放ったのか?

 襤褸(らんる)とは「ぼろ」の事だ。大正七年、一月に発表された『襤褸の光』には米騒動前夜の「何か」を汲んだ物語だと思える。作者はそれを「美しさ」を言い表したつもりであると書いているが、どうもそれだけではなかろう。

価格が高騰することにより、地主や商人は米を米穀投機へ回すようになり、次第に売り惜しみや買い占めが発生し始めた。事態を重く見た仲小路廉農商務大臣は、1917年(大正6年)9月1日に「暴利取締令」を出し、米・鉄・石炭・綿・紙・染料・薬品の買い占めや売り惜しみを禁止したが、効果はなかった。常軌を逸した商魂を表す口語の動詞「ぼる」「ぼられる」「ぼったくる」(暴る、暴られる、暴ったくる)は、この「暴利取締令」の「暴利」に由来する。(ウイキペディア「米騒動」より)

 観音堂の付近をうろつく、うら若い孕み女の乞食、その美にまた谷崎は「惡魔的」と無理を言う。衣服はぼろぼろに裂けている。女を妊娠させたのは「私」の友人の天才青年畫家だった。

「天才と天才とが膝をつき合はせて話しをし合ふ喜びは、單に二人の喜びではなく、宇宙全體の喜びだ。その喜びがある爲めに宇宙は存在して居るのだ。天才が互に相識る事が出来なかつたら、世界中が暗闇になつて、全地球は廻轉を止めてしまふ。」(谷崎潤一郎『襤褸の光』)

 こりゃまた、偉い天才があったもんだ。しかしそんな幸運は万に一つもなかろう。ルートビッヒ・ウィトゲンシュタインとカール・ライムント・ポパー卿の「火掻き棒事件」を思い出す。互いに相容れる天才など見聞きしたことがない。相容れたふりをしたらどちらかが贋物だ。まあ、それはとにかくこの天才Aは、女乞食に焼き芋を与える。翌日はおでんを食べる。相変わらずおでんには薩摩揚げと卵と大根がない。がんもどきと蒟蒻と焼き豆腐を食べる。

「己はお前の云ふやうな、えらい人間かも知れない。だが己は少なくとも此の世の中では乞食以上になれない人間だ。己のえらさは、人間の住む世界では分らないのだ。たヾ天國の神様のみが、己のえらさを知つて居るのだ」
「そんなら多分、観音様だけは、あなたのえらさを知つて居るでせう」(谷崎潤一郎『襤褸の光』)

 どこか芥川龍之介のような蒼い、尖ったおとぎ話が語られているような気がするのは私だけだろうか。これが「たとえ神が私を見放しても、私は私自身を信じる」と書いた男の言葉であろうか。理屈を言えば、この青年Aのえらさは、作品としての「うら若い孕み女の乞食」に認めるしかない。「私」は「うら若い女の乞食」を青年Aが孕ませたので天才だと認めているようでさえあるのである。天才でなくても健康でさえあれば、女を孕ませることくらいはできそうなものだが、なにしろ私にはそうした経験が一切ないものであまり偉そうなことは言えない。しかし「うら若い女の乞食」を孕ませたので天才、という無茶な理屈はやはり観音様と女の乞食にしか認められないものだろう。
 いや、浅草の観音様はそもそもそんな理屈を認めるだろうか?
 というより何か一つ飛ばされていないだろうか。
 神様と観音様の間に、何かが飛ばされていないだろうか。「己のえらさは、人間の住む世界では分らないのだ。」ということは、天皇陛下にも青年Aの偉さは解らないことになる。
 まあ、解らないだろう。
 いやそもそも、神様や観音様も解るまい。「うら若い女の乞食」を孕ませたので天才、女乞食にを認めたので天才という理屈は、流石に単なる逆説過ぎる。

 随分前のことになるが、とある寒い冬、小泉純一郎そっくりのとても上品な女性のホームレスが電話BOXで寒さをしのいでいるのを見かけたことがある。随分前というのは、まさしく小泉純一郎が総理大臣だった頃のような記憶がある。その時、私は「惜しいな」と思ったように記憶している。「この人、物真似番組か何かに出たら、絶対受けるのに」と。
 ごく最近では池袋の地下道で放心状態の女性のホームレスを見かけた。肩から斜めがけにしたバックは真新しく、服装もそう汚れてはいない。では何故ホームレスだと判断できたかといえば、マスクなしでノーメイクだったからだ。顔は女優の小西真奈美に似ていた。
 ホームレスだって美人も居れば、面白い顔の人もいる。
 ホームレスだから汚い≒醜いという決めつけもどうかと思うが、女乞食に無暗に美を見出して孕ませるのが天才の仕事ではなかろう。
 ここにきて谷崎は美醜とか貧富とか神と惡魔とか、そうした単純な対比の中に単純な逆説をやや乱暴に投げ込んで遊んでいるようなところがある。その狙いはまだ定かではない。

 これまで取り上げてきた範囲では、谷崎作品には二つの傾向がみられる。小品では近代以前に材を取りかなり性急にむき出しのロジックが語られ、長編では比較的現代的な風俗の中に物語が展開されるも、何か一つの主題が捨てられ、曖昧なロジックが仄めかされることが多かった。その度ごとに当然ロジックは異なるものの、繰り返しなぞられるイメージに「悪魔的」なるものがある。主人公の性質は様々で、單にマゾヒストと括ることは出来ない。女装趣味、女性化、バイセクシャル、サディスム……。そうしたものがいくつか組み合わされ、一人の人格の中に現れる。つまりマゾヒストという一つのスタイルにこだわってはいない。金髪白人に額づくべしというような絶対的なポリシーがあるわけではない。西洋への憧れも見え隠れするものの、まさに見え隠れであり、なければないでなんとかなる。
 例えば本作で天才画家に孕まされる女は、一切我を張らない、云ってみれば古い、理想の女だ。大人しく従順で、ドミナらしさはまるでない。それでもなんとかなってしまうのだ。
 次がどうなるのかは分からない。何故なら、次の作品を私はまだ読んでいないからだ。






 




【余談】

 お子様がけして読むことのない余談で、かなりダークなことを書いてみることにしよう。大正六年、第一次世界大戦に日本は参戦していた。ロシア革命がおこり、ソビエトが出来た。天然痘が大流行した。

 時代背景をみるとかなり厳しい時代だった。というより、やはり日露戦争でケチが付いて以来、日本はだんだん貧しくなっていった。より厳しい格差が生まれ、当然乞食も増え、翌年の米騒動には女乞食もいただろう。そして女乞食を狙うよからぬ輩もいなくはなかっただろう。無論そんな輩になんのえらさがあるわけでもなかろう。焼き芋を食わせ、おでんを食わせ、女乞食を孕ませる輩を指して、谷崎が「天才」としたのならば、谷崎の闇はまことに深い。日本をそんな国にした人こそ「天才」なのだが。





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