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『彼岸過迄』を読む 22  森本は大連には行っていない。

 いきなりですが、森本は本当に大連に行ったのでしょうか。つまり森本は自分の体験、ありのままを語っていたのでしょうか。

 好奇心に駆かられた敬太郎は破るようにこの無名氏の書信を披いて見た。すると西洋罫紙の第一行目に、親愛なる田川君として下に森本よりとあるのが何より先に眼に入った。敬太郎はすぐまた封筒を取り上げた。彼は視線の角度を幾通りにも変えて、そこに消印の文字を読もうと力めたが、肉が薄いのでどうしても判断がつかなかった。やむを得ず再び本文に立ち帰って、まずそれから片づける事にした。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 田川敬太郎はまずこの手紙がどこから送られてきたものかと事実を探ろうとします。酒鬼薔薇君から手紙を貰った週刊誌と同じ態度ですね。消印を確認します。その関心は読者に引き渡されます。手紙には「今大連で電気公園の娯楽がかりを勤めている」と書かれています。この時代、まだ民間旅客機はありません。満州には船で渡るしかなかったはずです。

 森本の姿が見えなくなって一週間がたち、ある晩主人が談判に来ます。そして、それからしばらくたって森本のいた部屋には別の客が這入ります。森本の手紙が届いたのは森本がいなくなってから、ニ三週間後という計算でしょうか。一月経っている感じはしません。手紙も船便でしょうから、少し早いなという感じがしますが問題はその次です。

 中で最も敬太郎を驚ろかしたのは、長春とかにある博打場の光景で、これはかつて馬賊の大将をしたというさる日本人の経営に係るものだが、そこへ行って見ると、何百人と集まる汚ない支那人が、折詰のようにぎっしり詰って、血眼になりながら、一種の臭気を吐き合っているのだそうである。しかも長春の富豪が、慰み半分わざと垢だらけな着物を着て、こっそりここへ出入するというんだから、森本だってどんな真似をしたか分らないと敬太郎は考えた。(夏目漱石『彼岸過迄』) 

 地図を確認してみてください。大連市と長春市は距離にしておよそ677キロメートル離れています。大連から天津なら船便がありますが、大連市と長春市だと陸路です。少し遠すぎませんか。つまりいささか話が大きすぎませんか。

 この大連、長春の旅は『満韓ところどころ』にある漱石自身の体験から材料が拾われたようです。なのでここにあえて「不自然」を感じる人はいないようです。

 やがて蹄の音がして、是公の馬車は二人の前に留まった。二人はこの麗うららかな空気の中をふわふわ揺られながら日本橋を渡った。橋向うは市街である。それを通り越すと満鉄の本社になる。馬車は市街の中へ這入らずに、すぐ右へ切れた。気がついて見ると、遥向うの岡の上に高いオベリスクが、白い剣のように切っ立って、青空に聳えている。その奥に同じく白い色の大きな棟が見える。屋根は鈍い赤で塗ってあった。オベリスクの手前には奇麗きれいな橋がかかっていた。家も塔も橋も三つながら同じ色で、三つとも強い日を受けて輝いた。余は遠くからこの三つの建築の位地と関係と恰好とを眺めて、その釣合のうまく取れているのに感心した。
 あれは何だいと車の上で聞くと、あれは電気公園と云って、内地にも無いものだ。電気仕掛でいろいろな娯楽をやって、大連の人に保養をさせるために、会社で拵えてるんだと云う説明である。電気公園には恐縮したが、内地にもないくらいのものなら、すこぶる珍らしいに違ないと思って、娯楽ってどんな事をやるんだと重ねて聞き返すと、娯楽とは字のごとく娯楽でさあと、何だか少々危しくなって来た。よくよく糺明して見ると、実は今月末とかに開場するんで、何をやるんだか、その日になって見なければ、総裁にも分らないのだそうである。(夏目漱石『満韓ところどころ』) 

 なるほど電気公園がそのまま使われています。『満韓ところどころ』には長春に行ったことも書かれています。満鉄総裁中村是公のお抱え旅行なので気楽なものです。予定では「奉天へ行って、それから北京へ出て、上海へ来て、上海から満鉄の船で大連まで帰って、それからまた奉天へ行って、今度は安奉線を通って、朝鮮へ抜けたら好いだろう」ということで内陸のしかも677キロメートルにも及ぶ陸路の旅については予定外でしたが、確かに長春の宿に泊まったことも書かれています。

 ところがこれもいつか別にやりますが『満韓ところどころ』はいつどこへ移動したのか、その経路と期間が実に曖昧に書かれていて、紀行文としてはわけの解らない話なのです。

 最初の目的地、奉天は大連と長春の中間地点の内陸にあるので、「奉天へ行って、それから北京へ出て、上海へ来て、上海から満鉄の船で大連まで帰って、それからまた奉天へ行って、今度は安奉線を通って、朝鮮へ抜けたら好いだろう」という行程が、私には謎だらけなのです。

 奉天から北京が800キロメートル近い陸路、北京から上海が2200キロの陸路、大連からまた奉天が390キロの陸路、長春はさらにその奥の内陸なんです。安奉線で奉天から朝鮮に渡るのは満鉄がスポンサーならではのことと思います。ただその外の経路は、何目的か解らないんです。なんなら逃亡犯が追跡を恐れてわざと複雑な経路を選んでいるようにさえ思えます。

 いや勿論漱石自身は確かに長春迄行ったのでしょうが、森本の手紙が着くタイミングと内容には少し無理があるように思うのです。

 森本にせよ田川敬太郎にせよ夏目漱石という作家が『彼岸過迄』という新聞連載小説に登場させた架空の人物なので、その森本が実際に大連なり、長春なりに行ったかどうかを問うこと自体がナンセンスだ、……という話ではなくて、夏目漱石という作家が『彼岸過迄』という新聞連載小説において、森本は本当は大連に行っていないのではないかと疑わせるように書いていませんか、という話です。

 つまり、森本は一種の小説を書いていて、田川敬太郎はそれをそのまま信じたのではないかということです。大体武勇伝というのは少し話が大きくなるもので、お話というものはうまく拵えられるものです。

 森本の話のかなりの部分は夏目漱石が人から聞かされた話のそのままか、一部改編のようです。それを夏目漱石が小説に仕立てるので、森本が話を拵えるというより、そもそも夏目漱石が話を拵えている訳ですが、漱石はわざとほころびを拵えて、読者に田川敬太郎の気が付かないところを気付かせようとしているのではないでしょうか。

 そう気がついて読むとおかしなところがありませんか。

 森本はこんな話をしながら、紙屋へ這入って巻紙と状袋で膨らました懐をちょっと抑えながら出て来た。表に待っていた敬太郎はすぐ今来た道の方へ足を向け直した。二人はそのままいっしょに下宿へ帰った。(夏目漱石『彼岸過迄』) 

 田川敬太郎に届いた森本の手紙は西洋罫紙に書かれ封筒に入って届きましたから、この巻紙と状袋は別の手紙に使われたことになりますね。そりゃ、大連でも西洋罫紙は売っていたでしょうが、この巻紙と状袋は何のために購入され、何に使われたのでしょうか。まさか果たし状でもあるまいに退職届は巻紙には書かないでしょう。退職届は簡潔に書くものです。

 この巻紙と状袋の始末は作中には見つかりません。当たり前のことながら、夏目漱石は登場人物を書き割りのように平面にはしません。田川敬太郎の知らない森本の行動があるのだぞということだけはきちんと示しています。森本はけして世捨て人ではなく、文をやる相手が沢山いるということです。しかもそういう用事があるということです。

 しかし手紙が着くのが早くて、大連と長春が遠いからと言ってそれで森本が嘘を言ったという証拠になるのかという人がいるかもしれません。

 これはいわば嘘つきを紛れ込ませると何が本当か分らなくなるという芝居の作用なのです。

 例えば『こころ』のKは正直者ではありませんよね。養父に学部変更を告げません。養父を騙しています。そもそも養子に行くことを先生に告げません。それで先生はKの姓が変わったことに教場で名簿が呼ばれる時に知り、驚いたわけです。Kは先生の御嬢さんへの気持ちに感づきながら、あえて知らないふりをして御嬢さんへの気持ちを先生に打明けます。

 一事が万事、人を騙す人というのはそういうものです。人を騙して平気な人は真顔で嘘をつきます。そして騙された方が悪いと嘯きます。

 森本はこんな人でした。

 主人の云うところによると、森本は下宿代が此家に六カ月ばかり滞っているのだそうである。が、三年越しいる客ではあるし、遊んでいる人じゃなし、此年の末にはどうかするからという当人の言訳を信用して、別段催促もしなかったところへ、今度の旅行になった。家のものは固より出張とばかり信じていたが、その日限が過ぎていくら待っても帰らないのみか、どこからも何の音信も来ないので、しまいにとうとう不審を起した。それで一方に本人の室を調べると共に、一方に新橋へ行って出張先を聞き合せた。ところが室の方は荷物もそのままで、彼のおった時分と何の変りもなかったが、新橋の答はまた案外であった。出張したとばかり思っていた森本は、先月限り罷められていたそうである。(夏目漱石『彼岸過迄』) 

 森本は嘘つきなんですね。嘘つきが書いてくることが全部本当なのでしょうか。

 それにしても漱石も大概です。「彼は視線の角度を幾通りにも変えて、そこに消印の文字を読もうと力めたが、肉が薄いのでどうしても判断がつかなかった」とありますが、そもそも切手はどうだったのでしょうか。消印の文字は読めなくても切手の柄は見えた筈です。切手がなければ消印もありません。ここは漱石が明確に細工していますよね。敢えて切手の柄を見せません。細工をしているということは罠が仕掛けられているということではないですか。「切手の図柄は見たことのないものだった」と書かないで、消印の文字を読もうと力めたということは、切手はむしろ見覚えのある図柄だったということですよね。

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(『通俗郵便物語』田中次郎 著丁未出版社 1916年)

   切手は殖民地のものではなく、「支那」の文字はなかったのでしょう。

 万万が一その手紙が雷獣とズクに読まれたとして、まさか大連迄取り立てに行こうとは思わないで、下宿代のことは諦めるだろうという計算も立ったかも知れません。いずれにしても大連にいながら大連にいるよという手紙は書かないのではないでしょうか。

 実際に森本が何処に行ったのか作中の記述からは明らかではありません。しかし夏目漱石という作家が消印の文字を読もうと力めたとして疑惑を拵えていることだけは確かです。


[付記]

 カフカの作品には最後の一行でこれまでの物語を全部引っくり返しかねない危うさがあると言われていますが、夏目漱石作品には最後の一行でないところ、よく見たらここにこんな言葉がはめ込まれているというものが少なくありません。『三四郎』の美禰子の下駄の鼻緒の色だとか『それから』の「念のため」とか『坊っちゃん』の「親譲り」とか『こころ』の「静」とか『行人』の「梅」だとか『彼岸過迄』の「遺伝」なんかそうですよね。

 よくぞここに入れて来たなと感心します。しかし何も隠されていないのに誰も気が付かないことが凄くないですか。

 これまで田川敬太郎の父親のことなど誰も気にしていませんでしたよね。精々言われてきたのは『坊っちゃん』の「親譲り」までで、「延岡」や「不浄の地」や「沢庵石」や「ちゃんちゃん」や「五分刈り」や「日清談判」や「米のなる木」はほったらかしでしたよね。

 例えば「そろそろ近代文学2.0の側に来ませんか?」には何が隠されているか解りますか?

 答え「あほな感想文を書いて悦に入っていないで、」ですよ。














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