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『三四郎』の謎について40 何故檜が不愉快なのか、「男」とは誰?

 夏目漱石作品には時々不意に謎の文句が現れます。たとえば、

 与次郎の帰ったのはかれこれ十時近くである。一人ですわっていると、どことなく肌寒の感じがする。ふと気がついたら、机の前の窓がまだたてずにあった。障子をあけると月夜だ。目に触れるたびに不愉快な檜に、青い光りがさして、黒い影の縁が少し煙って見える。檜に秋が来たのは珍しいと思いながら、雨戸をたてた。(夏目漱石『三四郎』)

 この「目に触れるたびに不愉快な檜」「檜に秋が来たのは珍しい」は意味が解りません。檜に何の恨みがあるのでしょう。悪戯でもされましたか? 夏目漱石作品の中で檜が明確にマイナスのイメージの中て捉えられている場面はここだけです。檜については散々調べましたが不吉な因縁などは見つかりません。

 あえて言えば、

 丈に足らぬ檜が春に用なき、去年の葉を硬く尖らして、瘠せこけて立つ後ろは、腰高塀に隣家の話が手に取るように聞える。(夏目漱石『虞美人草』)

 この場面で檜を貧相に描いているのですが、別に不愉快にまではなっていません。

 また檜は常緑針葉樹なので、春だろうが秋だろうが、生えているところに生えている訳です。雪に弱いと言っても秋に枯れることはありません。一般論としては「檜に秋が来たのは珍しい」なんてことはないのです。

 では三四郎のどのような感情がこうした感覚を齎したのかと考えても上手い連関というものが見つからないのです。この書き方からすると何かある筈、無くては可笑しいのですが、どうも見つかりません。

 作中「不愉快」の文字は九回登場します。そのうち七つの「不愉快」は比較的意味が明瞭です。残りの二つのうちレオナルド・ダ・ヴィンチの不愉快は既に解きました。

 そしてここだけ残りました。「目に触れるたびに不愉快な檜」、これは何なのでしょうか。これは明確な答えがないと思います。ここから先はもう近代文学2.0では解けません。

 檜が障子の外に何か威圧的な感じで聳えていて、その威圧的な感じが「ここに一人の男がいる。父は早く死んで、母一人を頼りに育ったとする」という境遇の三四郎にとっては不愉快であり、また生え続けている事に珍しさを感じてしまうのだ、などと薄っぺらいことを書くとたちまち近代文学1.0に堕ちてしまいます。これを檜を背の高い野々宮に準えた、としても同じですね。感情の変化の波が合いません。

 ですから、ここは今のところ何かありそうなんだけど解らない謎の部分だとしておきます。明日解るかも知れませんが、正直ふらふらなんですよ。メモリーが一杯です。連続で一日三記事上げているのでちょっとしたイージミスも絶えません。本質的なところでミスしないように必死です。

 ハムレットがオフェリヤに向かって、尼寺へ行け尼寺へ行けと言うところへきた時、三四郎はふと広田先生のことを考え出した。広田先生は言った。――ハムレットのようなものに結婚ができるか。――なるほど本で読むとそうらしい。けれども、芝居では結婚してもよさそうである。よく思案してみると、尼寺へ行けとの言い方が悪いのだろう。その証拠には尼寺へ行けと言われたオフェリヤがちっとも気の毒にならない。
 幕がまたおりた。美禰子とよし子が席を立った。三四郎もつづいて立った。廊下まで来てみると、二人は廊下の中ほどで、と話をしている。は廊下から出はいりのできる左側の席の戸口に半分からだを出した。の横顔を見た時、三四郎はあとへ引き返した。席へ返らずに下足を取って表へ出た。(夏目漱石『三四郎』)

 この場面の「」が誰なのか、そして何故三四郎は途中で帰ったのか。これは明確には書かれていませんが、おそらくこういうことでしょう。

 仮に三四郎が入鹿じみた心持でいることをこう解いたとしましょう。するとここで野々宮宗八が敢えて「」と呼ばれる意味も、三四郎が途中で帰る理由も明らかではないでしょうか。

 三四郎はこのハムレットの芝居が始まる前、原口が美禰子たちの席に混ざるのを羨ましがっています。

 この連中の一挙一動を演芸以上の興味をもって注意していた三四郎は、この時急に原口流の所作がうらやましくなった。ああいう便利な方法で人のそばへ寄ることができようとは毫も思いつかなかった。自分もひとつまねてみようかしらと思った。しかしまねるという自覚が、すでに実行の勇気をくじいたうえに、もうはいる席は、いくら詰めても、むずかしかろうという遠慮が手伝って、三四郎の尻は依然として、もとの席を去りえなかった。(夏目漱石『三四郎』)

 三四郎はよっぽど度胸のないかたなのです。世話になっている先輩を「」と称するほど入鹿じみた心持でいながら、実際にはテロは起こせないのです。

 そう気が付いてみると「廊下まで来てみると、二人は廊下の中ほどで、と話をしている。は廊下から出はいりのできる左側の席の戸口に半分からだを出した」という表現は感情の変化の波がぴたりと合わさって見事じゃないですか。

 そう気が付かないとただの訳が分からない表現ですが。



[余談]

 どうでもいい話ですが、

椽側には主人が洋服を着て腰をかけて、相変らず哲学を吹いている。これは西洋の雑誌を手にしていた。そばによし子がいる。両手をうしろに突いて、からだを空に持たせながら、伸ばした足にはいた厚い草履をながめていた。――三四郎はみんなから待ち受けられていたとみえる。(夏目漱石『三四郎』)

 このよし子のポーズ、妙に可愛くないですか。なんだか妙に幼くて。のっぽなのに。これは無邪気と言っていいんでしょう。竈門禰󠄀豆子みたいで妙にかわいいです。漱石はよし子の方が贔屓なんだと思います。

 本当にどうでもいいことですが、自分の好きな作品の、こうしたちょっとした場面のことを共有できると結構うれしいとは思うんです。そのためには当然ながら基本的な読解力というものが必要で、「両手をうしろに突いて、からだを空に持たせながら、伸ばした足にはいた厚い草履をながめていた」というポーズの絵が見えないと話になりませんよね。

 私は基本ずっとそういう「よき」ものの為に書いています。


[余談②]

 あらゆるコンテンツは無償化されるという予言に、山下達郎は逆らいましたよね。あらゆるコンテンツが無償化されたら、コンテンツメーカーは死に絶えるしかなく、後に残るのはプラットフォーマーの家畜のみだと。

 プラットフォーマーの鬼畜ぶりは尋常ではなく、アマプラは自主規制によって流通しなくなったクレイジーな映像作品まで拾い集めています。

 みなさんもそっち派ですかね。noteは読んでやるけどお前の本に金を払うことは永遠にないと。

 例えば『三四郎』を使い、『三四郎』でさえこれまでどれだけのことが知られてこなかったのかと日々指摘していて、少なくとも二十五六人は日々それを読んでいる訳でしょう。「そんなことは全部知っていた」と言えないわけですよね。トンデモ説でもなく、漱石作品を正しく読んでいることは伝わっている筈です。しかもまだ誰も書いていないことを書いています。あなたは『行人』や『こころ』をこの水準で読めていますか?

 読まないまま死ぬんですか?

 そんなに金が惜しいですか?

 精神的に向上心のない奴は馬鹿だ。












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