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岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する190 夏目漱石『明暗』をどう読むか 40 しつこいハンサム

自然頭の中に湧いて出るものに対して、責任はもてない

 津田は纏らない事をそれからそれへと考えた。そのうちいつか午過ぎになってしまった。彼の頭は疲れていた。もう一つ事を長く思い続ける勇気がなくなった。しかし秋とは云いながら、独り寝ているには日があまりに長過ぎた。彼は退屈を感じ出した。そうしてまたお延の方に想いを馳はせた。彼女の姿を今日も自分の眼の前に予期していた彼は横着であった。今まで彼女の手前憚らなければならないような事ばかりを、さんざん考え抜いたあげく、それが厭になると、すぐお延はもう来そうなものだと思って平気でいた。自然頭の中に湧いて出るものに対して、責任はもてないという弁解さえその時の彼にはなかった。彼の見たお延に不可解な点がある代りに、自分もお延の知らない事実を、胸の中に納めているのだぐらいの料簡は、遠くの方で働らいていたかも知れないが、それさえ、いざとならなければ判然した言葉になって、彼の頭に現われて来るはずがなかった。

(夏目漱石『明暗』)

 容貌の劣者・お延は津田から疎まれていたわけではない。寄って来られたら嬉しい、寄ってこないと淋しいくらいの感情はあるようだ。それにしても「自然頭の中に湧いて出るものに対して、責任はもてない」という弁解さえないのだから凄い。なんというか人間の心がないというのではなく、根本的に何かが欠けている。悪く言えば「コンクリ殺人」のようなものに通じるような気がする。そしてしばらく考えてみたが、良いパターンが見つからない。ただの自分勝手とは違う。自分勝手なら「自然頭の中に湧いて出るものに対して、責任はもてない」という弁解を考えるものだ。

 ここで言われている「横着」や「平気」はもはや「劣化版則天去私」ですらない。まず「私」が出ている。なんとなく鈍感である。考えがまとまらない点では愚である。note民のようでもある。つまりダメダメ男でもないし、荒くれもの、狼藉者でもない。どこかで小林のようなものは見下している。そして反省がない。自己批判がない。情熱もない。『坊っちゃん』の「おれ」なら何というあだ名をつけるだろうか?

 そもそも独自の存在を既成の何かに準えて捉えることは誤りだという考え方がある。津田由雄は津田由雄という世界にたった一人の男なのだから、誰にも似ていなくて当然である。それでも例えば『坊っちゃん』の「おれ」はどんな人かと言えば、単純で気の短い男という程度に「キャラクター」として説明できる。一郎は厳格な淋しがり屋、二郎はいい加減なお調子者、代助は気取った理屈屋、と何となく説明ができる。では津田由雄はどんな男かと言えば「しつこいハンサム」というくらいしか説明できない。敢えて言えば「なんだかよく分からない男」なのだ。せめて「自然頭の中に湧いて出るものに対して、責任はもてない」という弁解さえしてくれたなら、天然居士になれそうなものを、そこをほったらかしにするので形にならない。

 おそらくここは漱石が書きながら「責任はもてないという弁解」のところでどちらにでも触れる針を「さえ」に振り、「その時の彼にはなかった」としたところであろう。「自分もお延の知らない事実を、胸の中に納めているのだぐらいの料簡は」と書いて「あった」とまとめるのを止め、「遠くの方で働らいていたかも知れないが、それさえ、いざとならなければ判然した言葉になって、彼の頭に現われて来るはずがなかった」と暈している。漱石は敢えて津田の性格を纏まらないものにしている。

最も嫌いな謡の声

 お延はなかなか来なかった。お延以上に待たれる吉川夫人は固より姿を見せなかった。津田は面白くなかった。先刻から近くで誰かがやっている、彼の最も嫌いな謡の声が、不快に彼の耳を刺戟した。彼の記憶にある謡曲指南という細長い看板が急に思い出された。それは洗濯屋の筋向うに当る二階建の家であった。二階が稽古をする座敷にでもなっていると見えて、距離の割に声の方がむやみに大きく響いた。他が勝手にやっているものを止めさせる権利をどこにも見出し得ない彼は、彼の不平をどうする事もできなかった。彼はただ早く退院したいと思うだけであった。

(夏目漱石『明暗』)

 しかしここで一つ「謡を嫌う男」という個性が津田由雄に与えられた。何か哲学的な意味には発展しないただの嗜好だ。謡を聞いて以前に見た看板の文字を思い出す。そういう記憶もあるだろう。他人が勝手にやっているものを止めさせる権利はない。そのようにして個人の嗜好は時に他人に不平を与えるものだ。

岡本さん見たいな上流の家庭

「奥さんが来たろう」
 小林はまたこう訊いた。
「来たさ。来るのは当り前じゃないか」
「何か云ってたろう」
 津田は「うん」と答えようか、「いいや」と答えようかと思って、少し躊躇した。彼は小林がどんな事をお延に話したか、それを知りたかった。それを彼の口からここで繰り返させさえすれば、自分の答は「うん」だろうが、「いいえ」だろうが、同じ事であった。しかしどっちが成功するかそこはとっさの際にきめる訳に行かなかった。ところがその態度が意外な意味になって小林に反響した。
「奥さんが怒って来たな。きっとそんな事だろうと、僕も思ってたよ」
 容易に手がかりを得た津田は、すぐそれに縋りついた。
「君があんまり苛めるからさ」
「いや苛めやしないよ。ただ少し調戯い過ぎたんだ、可哀想に。泣きゃしなかったかね」
 津田は少し驚ろいた。
「泣かせるような事でも云ったのかい」
「なにどうせ僕の云う事だから出鱈目さ。つまり奥さんは、岡本さん見たいな上流の家庭で育ったので、天下に僕のような愚劣な人間が存在している事をまだ知らないんだ。それでちょっとした事まで苦にするんだろうよ。あんな馬鹿に取り合うなと君が平生から教えておきさえすればそれでいいんだ」
「そう教えている事はいるよ」と津田も負けずにやり返した。小林はハハと笑った。
「まだ少し訓練が足りないんじゃないか」
 津田は言葉を改めた。
「しかし君はいったいどんな事を云って、彼奴に調戯ったのかい」
「そりゃもうお延さんから聴いたろう」
「いいや聴かない」
 二人は顔を見合せた。互いの胸を忖度しようとする試みが、同時にそこに現われた。

(夏目漱石『明暗』)

 話の本筋ではないところで何気なく挟み込まれた「岡本さん見たいな上流の家庭で育った」という小林の台詞は、岡本が藤井よりは金持ちであるというばかりか、上流の人間であり、「育った」と言われる程度にお延は長く、つまりかなり早くから実家を離れていたことを説明してしまう。これまでお延は叔父である岡本の家から支度をして貰って津田に嫁いだというところまでは明らかであった。

 そこでふと気が付く。お延は岡本から指輪を買って貰う約束までしていたという。それはいい。しかし書かれていない部分で、自分の娘を岡本に預けておいて嫁入りの支度もしないお延の実家というのは少しおかしいのではなかろうか。なれそめからして何やら学識はありそうだが、極端に金がないのか、それとも薄情なのか、その両方か。今のところお延はあまりにも実家とのつながりが弱すぎる。

 これまでお延にはそうした影の部分は見えなかった。容貌の劣者ではあるが、健気な新妻のように見えていた。しかしお延の背後には貧乏で薄情な両親がいると思えば、

「百合子さん、もしあたしが津田を追い出されたら、少しは可哀相だと思って下さるでしょう」
「ええ、そりゃ可哀相だと思って上げてもいいわ」
「そんなら、その時はまたこのお部屋へおいて下すって
「そうね」
 百合子は少し考える様子をした。
「いいわ、おいて上げても。お姉さまがお嫁に行った後なら」
「いえ継子さんがお嫁にいらっしゃる前よ」
「前に追い出されるの? そいつは少し――まあ我慢してなるべく追い出されないようにしたらいいでしょう、こっちの都合もある事だから」

(夏目漱石『明暗』)

 この「その時はまたこのお部屋へおいて下すって」は冗談でも何でもなく、お延は実家からは捨てられたようなものなのかもしれない。

 そして小林は藤井と知り合いであるばかりではなく、岡本家のことも知っているらしいことが解る。このまま退場するとはとても思えない。


[余談]

 岩波は「謡曲指南」のところに注解をつけて、漱石は宝生新に謡をならっていたとする。

 私がHさんからヘクトーを貰った時の事を考えると、もういつの間にか三四年の昔になっている。何だか夢のような心持もする。
 その時彼はまだ乳離れのしたばかりの小供であった。Hさんの御弟子は彼を風呂敷に包んで電車に載のせて宅まで連れて来てくれた。私はその夜彼を裏の物置の隅に寝かした。寒くないように藁を敷いて、できるだけ居心地の好い寝床を拵えてやったあと、私は物置の戸を締しめた。すると彼は宵の口から泣き出した。夜中には物置の戸を爪で掻き破って外へ出ようとした。彼は暗い所にたった独り寝るのが淋しかったのだろう、翌くる朝までまんじりともしない様子であった。

(夏目漱石『硝子戸の中』)

 このHさんが宝生新、小犬がヘクトーである。


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