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『彼岸過迄』を読む 4341 主人公が疎外される物語

 田川敬太郎の冒険は物語に始まり物語に終わった。田川敬太郎は結局物語に入っていけなかった。碁を打ちたいのに碁を眺めさせられた。

 彼はぼんやりして四五日過ぎた。ふと学生時代に学校へ招待したある宗教家の談話を思い出した。その宗教家は家庭にも社会にも何の不満もない身分だのに、自ら進んで坊主になった人で、その当時の事情を述べる時に、どうしても不思議でたまらないからこの道に入って見たと云った。この人はどんな朗らかに透き徹るような空の下に立っても、四方から閉じ込められているような気がして苦しかったのだそうである。樹を見ても家を見ても往来を歩く人間を見ても鮮やかに見えながら、自分だけ硝子張りの箱の中に入れられて、外の物と直に続いていない心持が絶えずして、しまいには窒息するほど苦しくなって来るんだという。敬太郎はこの話を聞いて、それは一種の神経病に罹っていたのではなかろうかと疑ったなり、今日まで気にもかけずにいた。しかしこの四五日ぼんやり屈託しているうちによくよく考えて見ると、彼自身が今までに、何一つ突き抜いて痛快だという感じを得た事のないのは、坊主にならない前のこの宗教家の心にどこか似た点があるようである。もちろん自分のは比較にならないほど微弱で、しかも性質がまるで違っているから、この坊さんのようにえらい勇断をする必要はない。もう少し奮発して気張る事さえ覚えれば、当っても外れても、今よりはまだ痛快に生きて行かれるのに、今日までついぞそこに心を用いる事をしなかったのである。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 難しそうな話のすべてが空疎というわけではない。私が「観念の空中戦」と呼ぶ三島由紀夫のレトリックは足がかりがないところで二段三段と遥かな高みにジャンプし、やがて飛翔し、観念を戦わせて止揚する。もはやロジックなどというものではなくなる。だが三島由紀夫には悪気はなかろう。三島由紀夫は詩人なのだ。若き日の大江健三郎がそうであったように物事を大づかみでぎゅっと捉える握力のようなものを持っており、普通は視界にない後頭部からつま先あたりの大きな範囲で空間を把握する。いや、空間でもないな。明らかに目に見えているものをただ見ているわけではなく、少々言葉は軽くなるが物事の本質を捉えようとする。詩が散文よりロジカルでなくなるのは、ただ「崩し」を狙うのでなければやはりロジックを捨てても物事の本質を捉えようとしているからだ。

 田川敬太郎はここで「樹を見ても家を見ても往来を歩く人間を見ても鮮やかに見えながら、自分だけ硝子張りの箱の中に入れられて、外の物と直に続いていない」という坊主にならない前のこの宗教家の感覚を「神経病」と突き放して見せるが、夏目漱石は決して言葉を遊んでいたわけではなかろう。世界と直接接することが出来ないというこの感覚は、例えば三島由紀夫の『金閣寺』の溝口の感覚と同じものだ。しかしこれを「若い時は誰しもそんなことを一度や二度は考えてみるものだ」とだらしなくまとめることはやめよう。そういうことではないのだ。

 吃りは、いうまでもなく、私と外界のあいだに一つの障碍を置いた。(三島由紀夫『金閣寺』)
 何か拭いがたい負け目を持った少年が、自分はひそかに選ばれた者だ、と考えるのは、当然ではなかろうか。(三島由紀夫『金閣寺』)

 私は『金閣寺』を不自由な凡庸さを巡って書かれた青春小説の金字塔と見做している。溝口は特別な人間などではない。むしろ凡庸すぎるくらい凡庸な、屈折した若者だ。しかし「樹を見ても家を見ても往来を歩く人間を見ても鮮やかに見えながら、自分だけ硝子張りの箱の中に入れられて、外の物と直に続いていない」という感覚、この〈私〉という感覚は「神経病」でもなければ「若い時は誰しもそんなことを一度や二度は考えてみるものだ」といつたものでもない。また言葉が軽くなるが、おそらく〈私〉の本質だ。

 坂口安吾が批判した通り、確かに夏目漱石作品の主要な人物は旧時代の「家」や「家庭」にこだわってきたが、やはりその一方で三四郎や田川敬太郎などの若者は、不自由な凡庸さを抱え〈私〉として世界と対峙してきた。

 この劇烈な活動そのものがとりもなおさず現実世界だとすると、自分が今日までの生活は現実世界に毫も接触していないことになる。洞が峠で昼寝をしたと同然である。それではきょうかぎり昼寝をやめて、活動の割り前が払えるかというと、それは困難である。自分は今活動の中心に立っている。けれども自分はただ自分の左右前後に起こる活動を見なければならない地位に置きかえられたというまでで、学生としての生活は以前と変るわけはない。世界はかように動揺する。自分はこの動揺を見ている。けれどもそれに加わることはできない。自分の世界と現実の世界は、一つ平面に並んでおりながら、どこも接触していない。そうして現実の世界は、かように動揺して、自分を置き去りにして行ってしまう。はなはだ不安である。(夏目漱石『三四郎』)

 代助は現実世界に働きかけて格闘している平岡と対峙される。『坑夫』は現実世界を逃げ出してシキへ向かう話だ。しかしいずれも「樹を見ても家を見ても往来を歩く人間を見ても鮮やかに見えながら、自分だけ硝子張りの箱の中に入れられて、外の物と直に続いていない」という感覚には至っていない。硝子張りの箱は誰にでも与えられるものではないからだ。

 田川敬太郎はその感覚の遥か手前で、ただ現実世界と接している感じがしないだけだ。独り者の無職ならまだしも家庭にも社会にも何の不満もない身分でありながら硝子張りの箱によって現実世界と隔てられているとしたら、それは余程の事なのだ。そう承知しながらなお、それを狂言でないものとして認め、それに似た感覚を認めること自体が重要なのだ。独り者の無職でなくとも硝子張りの箱によって現実世界と隔てられているという状態がありうること、つまり独り者の無職だから現実世界と隔てられているわけではないということを認めることが重要なのだ。

 おそらく殆どの読者が「硝子張りの箱」という文字を無の感情でやり過ごしていたはずだ。そしてここに気を留めても、「神経病」以上の言葉が見つからないのではなかろうか。しかし田川敬太郎はその感覚に似たものに辿り着いたのだ。「硝子張りの箱」を空疎な観念だと決めつけていた読者は、田川敬太郎の感覚もやり過ごしていたことになる。それでは『彼岸過迄』を読んだことにはならない。独り者の無職だから、女がいないから、「硝子張りの箱」を理解できるわけではないのだ。

 碁を打ちたいのに、碁を見せられるという田川敬太郎の感覚は、

 この『三四郎』という小説の中で徹底して疎外される佐々木与次郎の隠れた本音にどこか似ている。田川敬太郎は徹底して疎外される主人公だ。そんな小説があるものかともおもうが、現にあるからしょうがない。

 

[余談]

 いよいよ谷崎の『痴人の愛』について書きはじめた。私は他人を傷つけることが嫌いだ。しかし私が『痴人の愛』について何かを書くことで傷ついてしまう人もいるだろう。「読み落とし」や「読み誤り」を指摘されたようで不愉快になる人も出て來るだろう。これまで一番多くの人を不愉快にさせた記事が、

 この記事のようで、約三千人が無の感情で通り過ぎて行った。有名な作品について書くということはそういうことなのだ。しかしいくら残酷なことであろうと真実を曲げるわけにはいかない。『痴人の愛』についても本当のことを書くしかない。いや、やめておこうかな。










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