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『彼岸過迄』を読む 4350 赤い煉瓦は上野駅 高等出歯亀はBL論を排す

 書いてあることを読むとはどういうことか

「敬太郎はそれほど験の見えないこの間からの運動と奔走に少し厭気が注して来た」→「敬太郎はそれほど成果の見えないこの間からの就職活動に少し厭気が注して来た」

「で、今夜は少し癪も手伝って、飲みたくもない麦酒をわざとポンポン抜いて、できるだけ快豁な気分を自分と誘って見た。」→「敬太郎はストレスを酒で紛らわせるタイプだ」

「赤いだろう。こんな好い色をいつまでも電灯に照らしておくのはもったいないから、もう寝るんだ。ついでに床を取ってくれ」→「敬太郎の下宿には電気が通っている」「敬太郎はそう酒が強いわけではない」

「敬太郎は夜中に二返眼を覚さました。一度は咽喉のどが渇いたため、一度は夢を見たためであった」→「最初に起きたのはを飲むためであり、夢の為に目を覚ましたのは小便に行く夢を見たからではないか」

「それでも彼はじっとしているつもりであったが、しまいに東窓から射し込む強い日脚に打たれた気味で、少し頭痛がし出したので、ようやく我がを折って起き上ったなり、楊枝を銜えたまま、手拭いをぶら下げて湯に行った」→「敬太郎の二日酔いは軽い」

「全くだ。あなたは堅いからね。羨しいくらい堅いんだから」→「実は敬太郎も少しは遊んでいるのではないか」

「何しろ商売が商売だから身体は毀す一方ですよ」→「森本の仕事は楽ではない」

「敬太郎が石鹸を塗けた頭をごしごしいわしたり」→「敬太郎はそう長髪ではなさそうだ」

堅い足の裏や指の股を擦ったりする間」→「ランナーや新聞配達は足の裏の皮膚が堅くなる。就職活動で正に奔走していたことのあらわれか」

「最後に瘠せた一塊の肉団をどぶりと湯の中に抛り込むように浸けて、敬太郎とほぼ同時に身体を拭きながら上って来た」→「この間敬太郎が掛湯をして湯につかる動作が省略されている。敬太郎はあまり長く湯につかるタイプではない」

「たまに朝湯へ来ると綺麗で好い心持ですね」→「森本は普段夜に湯に行く。夜の風呂は汚い」

「そうむずかしい這入り方でもないんでしょうが、どうもこんな時に身体なんか洗うな億劫でね。ついぼんやり浸ってぼんやり出ちまいますよ」→「そういう客がいるから湯船が垢だらけになるのだ」

「そこへ行くと、あなたは三層倍も勤勉だ。頭から足からどこからどこまで実によく手落なく洗いますね。御負に楊枝まで使って。あの綿密な事には僕もほとんど感心しちまった」→「敬太郎は体を洗うことに関してはマメだ」「森本は敬太郎が体を洗う様子を隈なく眺めていた」……ただしここにフォーカスしてBL云々はさすがにどうかと。

「昨夕の雨が土を潤かし抜いたところへ」→「敬太郎がビールを飲んでいた時、外は雨だった」「敬太郎が寝た後、森本は雨の中帰宅したので三階の敬太郎の部屋に明かりがついていないことに気が付いた」

「今朝からの馬や車や人通りで、踏み返したり蹴上げたりした泥の痕を」→「当時は車や馬車や徒歩で舗装されていない道を通勤通学していた」

「その一人一人がどれもこれもみんな灰色の化物に見えるんで、すこぶる奇観でしたよ」→「電車通勤のサラリーマンを灰色の化物と言っている。この表現は、銀行へ這入はいって算盤なんかパチパチ云わすなんて馬鹿があるもんか、という松本恒三の言葉と共にエリートとすりつぶされるだけのサラリーマンの対立構造として、現在に於いてなお苛烈な批判性を持っている。この小説を青春小説、モラトリアム小説、経済小説、いずれの捉え方をするとしても、朝日新聞の読者、つまり蛸狩りに成功しなかった者たちにとって、この灰色の化物という言葉は一つのリアルを突いている」

「森本はこんな話をしながら、紙屋へ這入はいって巻紙と状袋で膨らました懐をちょっと抑えながら出て来た」→「森本には手紙を出す相手や用事が色々ある」「須永市蔵には叔父くらいしか手紙を出す相手がいない」「須永市蔵は田川敬太郎にも手紙をやらない」「須永市蔵にとって田川敬太郎は友達なのか?」

「あなたの室から見た景色はいつ見ても好いね」→「三階の敬太郎の部屋からは東に上野の森が見渡せる」→「つまり不忍池や岩崎庭園なども見渡せる」

「その上敬太郎は遺伝的に平凡を忌む浪漫趣味の青年であった」→「敬太郎の父親は平凡を忌む浪漫趣味の男だった」「松本恒三の父親も贅沢な人だった」

「かつて東京の朝日新聞に児玉音松とかいう人の冒険談が連載された時」→「実話として喧伝された」

「南洋へでも出かけて、好きな蛸狩でもしたらどうだ」→「鎌倉でも出来た。蛸狩りは案外つまらない」

「新嘉坡の護謨林栽培などは学生のうちすでに目論で見た事がある」→「敬太郎には起業家になる意思があった」

 彼は都の真中にいて、遠くの人や国を想像の夢に上して楽しんでいるばかりでなく、毎日電車の中で乗り合せる普通の女だの、または散歩の道すがら行き逢う実際の男だのを見てさえ、ことごとく尋常以上に奇なあるものを、マントの裏かコートの袖に忍ばしていはしないだろうかと考える。そうしてどうかこのマントやコートを引っくり返してその奇なところをただ一目で好いからちらりと見た上、後は知らん顔をして済ましていたいような気になる。

(夏目漱石『彼岸過迄』)

 書いてあることを読むとはどういうことか。それはいわば高等出歯亀になることではなかろうか。俳句の世界ではテレビウオッチャーになるなとか、孫の俳句は駄目といったルールに並んで出歯亀主義が批判される。わざわざ古刹を巡る吟行もどうかと言われる。しかしこれは飽くまで粋の話である。粋とは一つの気取りである。自分を高く見せる細工だ。無論節度でもある。だから出歯亀に高等をつけて、自分を高く見せるのではなく、節度をもって高等出歯亀となろう。

「あなたの室から見た景色はいつ見ても好いね」という森本の言葉から森本の見ているものを探ることは必要で、「あなたは好い体格だね」という森本の言葉から森本の見ているものを探ることは不必要などと線引きをする必要はないが、その視線を股間に向けさせるのにはもう一つ根拠がない。そこは節度が必要だ。

 一方、

 彼はともかくも二日酔の魔を払い落してからの事だと決心して、急に夜着よぎを剥って跳ね起きた。それから洗面所へ下りて氷るほど冷めたい水で頭をざあざあ洗った。これで昨日の夢を髪の毛の根本から振い落して、普通の人間に立ち還ったような気になれたので、彼は景気よく三階の室に上った。そこの窓を潔いさぎよく明け放した彼は、東向に直立して、上野の森の上から高く射す太陽の光を全身に浴びながら、十遍ばかり深呼吸をした。こう精神作用を人間並に刺戟した後で、彼は一服しながら、田口へ報告すべき事柄の順序や条項について力めて実際的に思慮を回らした。

(夏目漱石『彼岸過迄』)

 マントやコートを引っくり返すように読むと、森本の見て居た景色が見える。東を向いて上野の森が見えるとしたら、上野の森のすぐ手前は不忍池、やや右手が岩崎庭園なので、そうした景色が眼下に広がっていたはずだ。そして、

 森本は窓際へ坐ってしばらく下の方を眺めていた。
「あなたの室から見た景色は相変らず好うがすね、ことに今日は好い。あの洗い落したような空の裾に、色づいた樹が、所々暖かく塊まっている間から赤い煉瓦が見える様子は、たしかに画になりそうですね」

(夏目漱石『彼岸過迄』)

 この赤い煉瓦は大正十二年の関東大震災で全焼する前の上野駅の駅舎だったのではないかと考えてみる。マントやコートを引っくり返すといっても実際に高等出歯亀がやることは調べて、ロジックを組み立てることである。上野の森あたりの地図でも眺めれば、森本の見て居た景色がなんとなく想像できるというものだ。

 その高等出歯亀が蚤取眼で眺めても、森本が田川敬太郎の肉体を性的な欲望の眼差しで眺めた形跡は見つからない。この風呂はただの風呂である。一方、

 この風呂は書かれない。詩だの哲学だのと言っている須永市蔵には風呂はまだ早い。

 二次元オタクで、しかも弱々しい体格と蒼白い顔色の須永市蔵には、身体の発育が尋常より遥かに好い千代子との混浴は屈辱的なものではあるまいか。田川敬太郎は童貞ではなさそうだが、

 須永市蔵はまだ女を知らないのではなかろうか。いや、色々書いても散らかるので今日は赤い煉瓦は上野駅というだけに留めておこう。



[余談]

 芥川龍之介の『あばばばば』を読んで、ああ煙草屋の暖簾は赤かったなと思い出した。『それから』の結び絡みで調べたら赤い電柱というのも当時は存在したことが解った。すっかり紳士が帽子を被らなくなった今、中折れの色さえ分からなくなっている。よく本を読みながら映像化しているという人がいるけれど着色は上手くいっているものだろうか。







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