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『三四郎』の謎について39 記憶は何故書き換えられたのか

 そとばこまちさんというパズル作家が『名作「楢山節考」に隠された謎を解く みんな深沢七郎にダマされていた!六十年の誤読 あの名作の真実』という本を出してらっしゃって、なかなか変わった切り口で、深沢七郎の作品を読み解いていらっしゃるのですが、やはり作品ごとに出来不出来がありますね。

 夏目漱石に関しては究極のトンデモ解釈を書いているのが、ダミアン・フラナガンという人で、この人は日本人には漱石作品は解らないんだと言い張っています。

 この人の駄目なところはいくつもあるのですが、その一つに漱石作品におけるニーチェの影響について過大視している、というところがありますね。こういう言い方もどうかと思うのですが、漱石のニーチェ評はかなり辛く、またニーチェの思想を深く捉えていなかったようなところがあるので、結果としてダミアン・フラナガンの漱石論は奇妙奇天烈なものになってしまっています。一言でいえば「狂人」としての漱石を強調しすぎだと思います。

 ダンテやニーチェを持ち出さないまでも漱石作品に英語の地口が隠されているとして何か書いている人もいますね。この方法なんですが、まさにパズルで、要するに聖書の中に予言を見つけてしまうようなことになってしまうんじゃないかなあという気がします。回文とかいろは歌とか、職人は凄いですからね。何でもこじつけられます。「愚弄」は「grow」だなどと簡単に考えては駄目だと思います。

 私は矢張り外から何か持ってくるのは最低限にして作品そのものから意味を取り出すことをまずやりたいと思います。

「熱い日でしたね。病院があんまり暑いものだから、とうとうこらえきれないで出てきたの。――あなたはまたなんであんな所にしゃがんでいらしったんです」
熱いからです。あの日ははじめて野々宮さんに会って、それから、あすこへ来てぼんやりしていたのです。なんだか心細くなって
「野々宮さんにお会いになってから、心細くおなりになったの」
いいえ、そういうわけじゃない」と言いかけて、美禰子の顔を見たが、急に話頭を転じた。
「野々宮さんといえば、きょうはたいへん働いていますね」
「ええ、珍しくフロックコートをお着になって――ずいぶん御迷惑でしょう。朝から晩までですから」
「だってだいぶ得意のようじゃありませんか」
「だれが、野々宮さんが。――あなたもずいぶんね」
「なぜですか」
「だって、まさか運動会の計測係りになって得意になるようなかたでもないでしょう」(夏目漱石『三四郎』)

 この部分を読んだ時、「あれ?」と思いませんでしたか。

 丁寧に礼を述べて穴倉を上がって、人の通る所へ出て見ると世の中はまだかんかんしている。暑いけれども深い息をした。西の方へ傾いた日が斜めに広い坂を照らして、坂の上の両側にある工科の建築のガラス窓が燃えるように輝いている。空は深く澄んで、澄んだなかに、西の果から焼ける火の炎が、薄赤く吹き返してきて、三四郎の頭の上までほてっているように思われた。横に照りつける日を半分背中に受けて、三四郎は左の森の中へはいった。その森も同じ夕日を半分背中に受けている。黒ずんだ青い葉と葉のあいだは染めたように赤い。太い欅の幹で日暮らしが鳴いている。三四郎は池のそばへ来てしゃがんだ。
 非常に静かである。電車の音もしない。赤門の前を通るはずの電車は、大学の抗議で小石川を回ることになったと国にいる時分新聞で見たことがある。三四郎は池のはたにしゃがみながら、ふとこの事件を思い出した。電車さえ通さないという大学はよほど社会と離れている。
 たまたまその中にはいってみると、穴倉の下で半年余りも光線の圧力の試験をしている野々宮君のような人もいる。野々宮君はすこぶる質素な服装なりをして、外で会えば電燈会社の技手くらいな格である。それで穴倉の底を根拠地として欣然とたゆまずに研究を専念にやっているから偉い。しかし望遠鏡の中の度盛りがいくら動いたって現実世界と交渉のないのは明らかである。野々宮君は生涯現実世界と接触する気がないのかもしれない。要するにこの静かな空気を呼吸するから、おのずからああいう気分にもなれるのだろう。自分もいっそのこと気を散らさずに、生きた世の中と関係のない生涯を送ってみようかしらん。(夏目漱石『三四郎』)

 熱いから(暑いから)左の森に入った、ということはなんとなく納得できます。しかし池のはたで考えていたことは野々宮君の生活スタイル(研究スタイル、現実世界との非接触)のことであり、三四郎はそこに共感さえ抱いていたのではなかったでしょうか。その時は。この後三四郎は確かに孤独を感じるんですが、心細くなるのと孤独とはこれまた少し意味が違いますよね。

 しかしその時の思いは消え、なんだか心細くなってぼんやりしていたことになってしまっています。この記憶の書き換えは何なのでしょうか。単なる忘却ではないでしょう。その前にわざわざこうあるからです。

「あの木を知っていらしって」と言う。
「あれは椎」
 女は笑い出した。
よく覚えていらっしゃること
「あの時の看護婦ですか、あなたが今尋ねようと言ったのは」
「ええ」
「よし子さんの看護婦とは違うんですか」
「違います。これは椎――といった看護婦です」
 今度は三四郎が笑い出した。(夏目漱石『三四郎』)

 漱石はわざわざこうして三四郎の記憶が明瞭すぎるほど明瞭であることを念押ししています。その上で「なんだか心細くなって」と言わせています。「あれは椎」がなければ、たまたま書いていくうちにずれが生じたと見做してもいいんでしょうが、ここはわざと記憶を書き換えさせていますね。

 あるいはこう言ってもいいかもしれません。時間に対する一つの考え方を示していると。

 確かに美禰子と三四郎の出会いのシーンの前に「なんだか心細くなって」というような心情は出てこないわけです。しかしその過去はフィルムに残された映像のように固定されたものであるべきなのでしょうか。三四郎は確かに「自分もいっそのこと気を散らさずに、生きた世の中と関係のない生涯を送ってみようかしらん」と野々宮に共感しかかっていましたし、野々宮の事を考えていました。その過去の自分に対して美禰子の魔法にかかってしまった現在の三四郎は一つの解釈を加えたのではないでしょうか。過去の意味を決めるのは未来の自分なのだとしたら、そういう未来に突き進んでいる三四郎ならば「自分もいっそのこと気を散らさずに、生きた世の中と関係のない生涯を送ってみようかしらん」と野々宮に共感しかかっていた過去の自分を精神分析して「なんだか心細くなって」そんなことを考えたんだなと批判しても良いわけです。

 三四郎が何か言おうとすると、足の前に泥濘があった。四尺ばかりの所、土がへこんで水がぴたぴたにたまっている。そのまん中に足掛かりのためにてごろな石を置いた者がある。三四郎は石の助けをからずに、すぐに向こうへ飛んだ。そうして美禰子を振り返って見た。美禰子は右の足を泥濘のまん中にある石の上へ乗せた。石のすわりがあまりよくない。足へ力を入れて、肩をゆすって調子を取っている。三四郎はこちら側から手を出した。
「おつかまりなさい」
「いえ大丈夫」と女は笑っている。手を出しているあいだは、調子を取るだけで渡らない。三四郎は手を引っ込めた。すると美禰子は石の上にある右の足に、からだの重みを託して、左の足でひらりとこちら側へ渡った。あまりに下駄をよごすまいと念を入れすぎたため、力が余って、腰が浮いた。のめりそうに胸が前へ出る。その勢で美禰子の両手が三四郎の両腕の上へ落ちた。
「迷える子(ストレイ・シープ)」と美禰子が口の内で言った。三四郎はその呼吸を感ずることができた。(夏目漱石『三四郎』)

  こんなことをされた後ではもう「自分もいっそのこと気を散らさずに、生きた世の中と関係のない生涯を送ってみようかしらん」とはならないわけです。未来が過去を規定するのですから、轢死体の凄い顔を見て「自分も批評家として、未来に存在しようかとまで考えだした」自分も「なんだか心細くなって」いただけだと批判して進めばいいのです。

 だから、

「野々宮さんといえば、きょうはたいへん働いていますね」
「ええ、珍しくフロックコートをお着になって――ずいぶん御迷惑でしょう。朝から晩までですから」
だってだいぶ得意のようじゃありませんか
「だれが、野々宮さんが。――あなたもずいぶんね」
「なぜですか」
「だって、まさか運動会の計測係りになって得意になるようなかたでもないでしょう」(夏目漱石『三四郎』)

 といった入鹿じみた心持も現れるわけでしょう。これはある意味で三四郎の成長ですよね。美禰子には愚弄するつもりはないのに、三四郎はいつの間にかgrowしちゃっていますね。

 成長ってある意味記憶を書き換えていくことなんじゃないでしょうか。そうでなければ何者でもないものが何者かになることなんてないでしょう。兎に角過去は未来によっていくらでも変えられるということですよ。

 それにしても漱石、芸が細かいですね。

 え? たまたまってまだ言いますか。

「東京はどうです」
「ええ……」
「広いばかりできたない所でしょう」
「ええ……」
「富士山に比較するようなものはなんにもないでしょう」
 三四郎は富士山の事をまるで忘れていた。広田先生の注意によって、汽車の窓からはじめてながめた富士は、考え出すと、なるほど崇高なものである。ただ今自分の頭の中にごたごたしている世相とは、とても比較にならない。三四郎はあの時の印象をいつのまにか取り落していたのを恥ずかしく思った。(夏目漱石『三四郎』)

 過去は今作られているでしょう。この「考え出すと」ってまさにベルクソン的想起、過去の創造ですよね。

[余談]

 漱石の英語の日本語表記は、現在の我々の使うものとは少し違いますね。

 たとえば「ポッケット」これは大隈重信、田山花袋、徳富蘆花、森鴎外、谷崎潤一郎、芥川龍之介なども使います。その他広く一般に使われた表記でした。

 しかし「タウエル」になると島村抱月くらいしか使っていないと思います。

 「マカロニー」を使うのは宮本百合子と豊島与志雄くらいです。芥川も伸ばさないで「マカロニ」でした。


[余談②]

みなさん「返報性の原理」という言葉を見聞きしたことはありませんか?

ない?

はっきりしていてよろしい。

おお。














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