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川上未映子の『ヘヴン』をどう読むか① うれぱみん、脳天ファーラ

 そういえばもう何年も天道虫を見かけていないような気がする。もちろん今でも蝉の啼く街と啼かない街の違いはあれども、確かなことはあの頃とはすっかり棲息する生き物が変わってしまったことだ。街でよく見かけるポピーも昔はなかった。蝶だって最近はシジミばかりみかけるけれど、昔はアゲハかモンシロチョウが普通だった。

 そうしてあの頃とか昔と言ってみるのはいつの頃のことかというと、『ヘブン』の舞台となる1999年以前の漠としたイメージで、これは主人公の「僕」が中学生だと考えると、丁度酒鬼薔薇君があの事件を起こす前の、もやもやした世紀末前の世界だ。

 仮に作者川上未映子が1976年生まれだと仮定すると、『ノストラダムスの大予言』の出版は1973年なので、彼女が生まれる三年前から世紀末ブームというものが始まっていた勘定にはなるものの、1997年に十四歳で事件を起こす酒鬼薔薇君がやはり『ノストラダムスの大予言』の強い影響下にあったことを鑑みると、世紀末ブームは二十三年間日本を呪縛し、オウム事件にも影響を与えた悪しきものだったと言えようか。

 しかし一方で酒鬼薔薇君がまさにそういうものとして受け止めていたように、世紀末は「あきらめ」であると同時に「すくい」でもあった。どうせ人類は亡びるという諦念は恐怖というよりはどんよりとした不安であり、その一方では、何かに押さえつけられもがいていた子供たちにしてみれば、わずらわしいもの、くだらないものを取り除いてくれるかもしれないという意味では期待すべきものでもあった。(酒鬼薔薇君も事件前カツアゲをされていた。)

 実際の自分の年齢や記憶を捨てて、たとえば1997年に中学二年生であるとはどのような感じだろうかと考えてみることがある。自分が大人になる前に世界が滅んでしまうという感覚はどんなものだろうかと。

 すると急にあれからまだ二十四年しか経っていないんだと驚く。世紀末なんてつい最近のことで、三十年は失われていたんだから差し引きマイナス六年なんじゃないかと。

 ヘヴンですが、夏休みの最初の日にしませんか?

(川上未映子『ヘヴン』講談社 2009年)

 2009年だってそんなに昔ではない。しかし肝心なことはその描かれている世界が1999年7月より前にあるということだ。もうない過去、昔あった過去で、世界が終わる前の話だ。つまりこの世紀末後に続いているかのように思い込んでいる本当はなかった未来ではない世界の話だ。そこにはいろいろと問題のあるいじめられっ子の男女がいて、胸糞悪くなるいじめがあり、絶望はなく、ヘヴンがある。

 なんだ、ヘヴンって?

 ハロー。二十二歳の君は一体どんな人になっているのでしょう。

(川上未映子『ヘヴン』講談社 2009年)

 1999年に22歳なら1977年生まれか。というより、これは1981年か1982年の頃の話なのか? となると『1Q84』の一年か二年前、まだインターネットが存在せず、パソコンがマイコンと呼ばれ、ワードプロセッサーの画面には十六文字しか表示されず、お茶のペットボトルもなかった時代だ。

 薬局はまだ薬局でおもに医薬品を取り扱い、今のドラッグストアのようにパンティストッキングやカップ焼きそばやアルフォートなんか売っておらず、シャノアールはまだ存在していたがシャノワールという喫茶店はなく、ルノワールとシャノアールの言い間違えが珍しくなかった時代だ。

 そんな時代のヘヴン?

 それが何なのかまだ誰も知らない。何故ならまだ一章しか読んでいないからだ。

[余談]

『滑稽な巨人 坪内逍遥の夢』(津野海太郎、平凡社、2002年)を読んでいると、逍遥が二葉亭四迷より五歳年上(知っていた)、奥さんが娼妓、漱石が逍遥の講義を聴講、明治二十二年にマジメ革命に走る、森鴎外は三歳年下、名古屋弁から江戸言葉に、……と色々ある中、昭和二年十月まで講演していたことが書かれていた。そう言えばずいぶん昔の人という印象だが没年は昭和十年。

 ついこの間亡くなったばかりだ。

争え。


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