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その記憶はない 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む32

  平野啓一郎は「55 悪としての透」において、「人を傷つけたくてうずうずしていた」という安永透を見出し、なお「この特異性に、作者は別段、前世からの業相続という仏教的な意味づけを行っていない」と書いてみる。

  非常にミクロにとは言いながら少なくとも三島由紀夫の膨大な作品群から仮に『豊饒の海』だけに関して平野啓一郎の『三島由紀夫論』の弱点を指摘するならば、やはり『春の雪』に関する読みの浅さがまず言えるところではなかろうか。

 松枝清顕は雅の棘を持っていた。

 それは単に「人を傷つけたくてうずうずしていた」という安永透の粗野な性質とは異なるものの、本多の養子となり、なにやら「高貴」な洋食のマナーなどを教え込まれることによって身に着ける安永透の棘は、幼くして蹴鞠と和歌の伝統に繋がる綾倉家に預けられて雅を学ばされる松枝清顕の棘の反復と言ってよいのではなかろうか。

 松枝清顕の雅の棘は最終的に宮様の許嫁を孕ませる、自分に雅を教え込んだ綾倉聡子を孕ませ、堕胎させるという復讐の形式を歩んだ。

 安永透の棘は自分に「高貴」を教え込もうとした変態覗き魔の本多繁邦を火掻き棒で殴ることになる。

 この対は『春の雪』においてこう予見されていたことでもあった。

 もしかすると清顕と本多は、同じ根から出た植物の、全く別のあらはれとしての花と葉であつたかもしれない。

(三島由紀夫『春の雪』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 その本多は松枝侯爵家の食卓の教えは知らなっただろう。

 子供のころから清顕はやかましく食卓の作法を父に教え込まれたものであるが、母はいまだに洋食に馴染まず、もつとも自然に振舞つて格を外さないのは清顕で、父の作法には今以て新帰朝者の物々しさが残つていた。

(三島由紀夫『春の雪』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 日本の近代化は、というより「明治」は西洋化によって始まった。尊王攘夷の「攘夷」は明治二年の天皇の洋装でどこかに消えてしまった。松枝侯爵はその西洋化する明治のしきたりに倣ったに過ぎない。明治とは建前では王政復古と言いながら、本音ではそれ以前の日本を全否定するものだった。

 天皇に熱い握り飯を差し上げると言いながら、三島由紀夫が自宅で洋食を食べることにこだわり、『春の雪』だけではなく、『天人五衰』においてもでこの洋食のマナーが強調されていることはたまたまではあるまい。

 実際、透を養子とした後、洋食のマナーを教えながら、本多は、「日本で、『育ちがいい』ということは、つまり西洋風な生活を体で知っているというだけのことなんだからね。純然たる日本人というのは、下層階級か危険人物かどちらかなのだ。」と語り、「勲の高貴」が洋食のマナーなどとは無縁であったことを考える。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 こう「54 記憶と蓄財」で洋食のマナーに関して述べながら清顕について振り返らないことが欺瞞でないとしたら、それは平野啓一郎という天才作家の単なる読みの浅さというものを示していると言われても仕方ないだろう。シンメトリーとは平野啓一郎がこの『三島由紀夫論』で最も意識してきたことではなかったか。

 そしてこれは決して些末な問題ではなく、三島由紀夫に関する本質的な問題の一つと言えるかもしれない。

 既に繰り返し述べた通り、深沢七郎は三島由紀夫が贋物であることをビフテキによって見抜いた。

 三島由紀夫が小さな西洋館に無理矢理らせん階段を拵えてシャンデリアの下でビフテキを食べていたことを深沢七郎は小馬鹿にする。しかし三島由紀夫は大真面目だったのだ。(そして敢えて三島由紀夫のありきたりのやさしさについて触れるならば、おそらく洋食のマナーなどというものに不慣れである筈の深沢七郎をお箸が使える高級中華料理店に招待してフカヒレだか、ツバメの巣だか、何かそういうものを食べさせ、鱒白葡萄酒煮牛乳製掛汁や雁肝冷製寄物などで嚇かせはしなかったことは、絶対に善意である。)

 平野啓一郎は作品論を作家論に発展するためにはここを掘らなくてはならなかった。どうも『豊饒の海』は『奔馬』を除いて完全なブルジョワ小説で、『春の雪』と『天人五衰』には洋食のマナーと棘の反復がある。

 夏目漱石の祖先の子孫と三島由紀夫の祖先に関係があったことはどこかで述べた。

 逆に平岡家は精々頑張っても丹後守あたりに繋がる程度のものであろうから、三島由紀夫は貴族とは言えまい。しかし神西清が指摘した通り貴族文芸の継承者に見えた。


 三島由紀夫自身にその自覚があり太宰治の華族言葉を批判した。三島由紀夫はどうも「高貴」であろうとしてビフテキを食べていたのだ。
 松枝清顕と安永透がともに洋食のマナーを教え込まれるのは、ともに「育ちがいい」とは言い難い「父」によってである。

 清顕は幼い頃「公卿の家」に預けられた。一章でそう告げられてその「公卿の家」が綾倉伯爵家であることが解るのが第三章である。

 父侯爵が、幕末にはまだ卑しかつた家柄を恥ぢて、嫡子の清顕を、幼児、公卿の家へ預けたりしなかったら

(三島由紀夫『春の雪』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 13ページにはこうある。公卿とは、明治維新以前の上流貴族の総称である。

 果たして何時から何時まで清顕が綾倉家に預けられていたのかは明記されていない。

明治二十八年      一歳
明治二十九年      二歳   
明治三十年       三歳   
明治三十一年      四歳
明治三十二年      五歳   
明治三十三年      六歳
明治三十四年      七歳
明治三十五年      八歳
明治三十六年      九歳
明治三十七年      十歳    御幸   得利寺附近の戦死者の弔祭
明治三十八年      十一歳   日露戦争終結
明治三十九年      十二歳
明治四十年       十三歳   お裾持ち
明治四十一年      十四歳
明治四十二年      十五歳
明治四十三年      十六歳
明治四十四年      十七歳
明治四十五年/大正元年 十八歳   学校で日露戦役の話が出た時

「子供のころから清顕はやかましく食卓の作法を父に教え込まれた」とあるのに「幼いころの清顕を綾倉家へ預けたのであつた」とある。しかし「優雅を与へようとして」のことなので一二歳ということはあるまい。三歳から九歳の間というところであろうか。
 しかし蹴鞠と和歌の家では洋食は出まい。せいぜい海老真薯とかがんもどきの煮たのが出てくるだけでナイフもフォークも使うまい。ここに「純然たる日本人というのは、下層階級か危険人物かどちらかなのだ。」という本多のジョークが効いてくる。蹴鞠をする伯爵は下層階級でも危険人物でもない。

 そしてまた「父の作法には今以て新帰朝者の物々しさが残つていた」という何気ない一言が妙な意味を持ってくる。新帰朝者とは永井荷風だけの呼称ではない。おそらく森鴎外や夏目漱石もそう呼べば新帰朝者と呼べなくもなかろう。清顕の父はおそらく明治三十六年以前に洋行していた筈である。食堂には「イギリスへ誂へたおのおのの、美しい紋章入りの飾皿」が並べられていることから洋行先はイギリスであろう。

 この食卓の光景には何かおかしなものがある。

 かうして両親の会話が一見弾んでゐるやうにみえるとき、清顕はいつもながら、両親が或る儀式を執り行つてゐるやうに感じた。その会話は順を追つてうやうやしく捧げられる玉串であつて、光沢のある榊の葉も吟味して選られていた。

(三島由紀夫『春の雪』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 神事になぞらえられるこの会話は何を意味するのだろうか。

 果たして侯爵は、晩餐のあとの珈琲もそこそこに、
「さあ、清顕、ひとつ撞球でもやらうか」
 と言ひ出し、
「それでは私はそろそろ退らせていただきます」
 と侯爵夫人は言つた。
 幸福な清顕の心は、今夜はこの種のまやかしにも、少しも傷つかなかつた。母は母屋へ退き、父子は撞球室へ入つた。

(三島由紀夫『春の雪』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 さて本来は清顕が傷ついても仕方のない「まやかし」とは何だっただろう。十八にもなった息子にとって、夫婦のセックスレスなどさしたる問題として意識されることもなかろう。息子を間に置かなくては会話ができないわけでもないことは、清顕のいないところで二人の間に綾倉聡子の縁談の斡旋の話が続けられていたらしいことから明らかだ。

 このことは先に「滝壷への陥落」とも言われていた。

 これはまさに「解らない型アトラクション」だ。

 この答えはひとまず置こう。今日はまた平野啓一郎が指摘しなかった松枝家の正体を確認して終わりにしよう。

 二人が入った撞球室には先代の肖像画と日露戦役海戦の油絵が飾られていた。

 国の鹿児島から新参の女中が来た時には、必ずこの肖像画の前へ連れて来られて、拝まされる。

(三島由紀夫『春の雪』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 松枝家は鹿児島出身の祖父が維新で「活躍」して、父はまた日露戦争で「活躍」した薩摩隼人だったのだ。だから御幸もあったのだ。しかし松枝侯爵自身洋食のマナーで気取っていても、本当はさつま揚げやサツマイモが好物で黒糖焼酎が飲みたいのだ。少(すっ)のとも松枝清顕の祖父(じさま)は洋食などちゅうものはあらかした口にすっこっもなかったじゃろ。ともに「育(おや)しがいい」とは言(ゆ)難(に)き「父」によって洋食のマナーが教えられるちゅう対は、こん薩摩隼人が見えておらんと気がつかんとこいだ。

 少なくとも松枝清顕の祖父は洋食などというものはほとんど口にすることもなかっただろう。ともに「育ちがいい」とは言い難い「父」によって洋食のマナーが教えられるという対は、この薩摩隼人が見えていなければ気がつかないところだ。

[附記]

 松枝清顕が松枝侯爵の実子ではない可能性についてもぼんやりと考えた。実は清顕が綾倉家に預けられていたというのは嘘で、清顕はもともと綾倉家の人間で、聡子は実の姉、だから清顕の子を宿した聡子は無理やり堕胎させられたのではないかと。何しろ清顕が綾倉家に預けられていた期間というものが実に曖昧に書かれていることが気になる。

 よくよく考えれば天子様の許嫁を孕ませようとまさか命まではとられまいよ、と言われているのである。清顕と聡子の子が命までとられるのは、それが天子様の許嫁を孕ませることよりも重い罪だからではないか。

 清顕は松枝侯爵と侯爵夫人が全き両親ではないということを記憶にはないながらどこかで感じていたのではないか。

 それであれば本多の「養子」というアイデアがまた仄めかしとなって見えてくる。

 そもそも「生れ変り」という発想は血脈を無意味化する発想である。三島天皇論も血脈を無意味化している。養子縁組もそうだ。しかし最も重いタブーは近親相姦にあると考えてみると、三島がある予言をしていたように思えてきて面白い。これはただ面白い話にするべきではあるが。


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