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『彼岸過迄』を読む 20 500円でどう? ではない世界

 まず須永の五六軒先には日本橋辺の金物屋の隠居の妾がいる。その妾が宮戸座とかへ出る役者を情夫にしている。それを隠居が承知で黙っている。その向う横町に代言だか周旋屋だか分らない小綺麗いな格子戸作りの家があって、時々表へ女記者一名、女コック一名至急入用などという広告を黒板へ書いて出す。そこへある時二十七八の美くしい女が、襞を取った紺綾の長いマントをすぽりと被って、まるで西洋の看護婦という服装をして来て職業の周旋を頼んだ。それが其家の主人の昔書生をしていた家の御嬢さんなので、主人はもちろん妻君も驚ろいたという話がある。次に背中合せの裏通りへ出ると、白髪頭で廿ぐらいの妻君を持った高利貸がいる。人の評判では借金の抵当に取った女房だそうである。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 私の記憶が確かならば、これまでに発表された村上春樹作品の中で、主人公が女を買うのは『女のいない男たち』に収められた『木野』が最初で最後であっただろう。最後というのは、未来の記憶、予言でもある。『木野』では熊本で女が買われるが、これは村上春樹さんが学生時代熊本で映画を見て出て来たところ「500円でどう?」と誘われて、流石に500円は当時としても安すぎてやばいので断ったというエピソードを知っていると妙に面白いところだ。『羊を巡る冒険』では高級淫売が出て來る。しかし主人公は金を払ってセックスをしない。『木野』だけが例外なのだ。だからあんなことになってしまう。

 夏目漱石作品でも(妾というものはしばしば出てくるが)明示的に女を買うのは『それから』の代助だけだ。赤坂の待合で一晩過ごすというさりげない表現ながら、外国の読者にはその意味が明確に伝わっていることから、翻訳者が註をつけたか、「待合」をもう少し露骨な表現に変えているのかもしれない。

 夏目漱石も女を買う、ということを書かない部類の作家だと言って良い。谷崎潤一郎にとって女は性的嗜好の対象であり、その関係に金銭が関わることには何の問題もなかった。必要なら払うし、払う必要がなければ払わないだけのことだ。村上春樹作品は「山火事のようにタダ」なセックスに拘り、頑なにセックスの代償として金銭を支払うことを拒んできた。セックスの代償として金銭を支払うということがどうしても理解できないからだ。一見夏目漱石のスタンスは谷崎潤一郎寄りのようにも思えるが、むしろ村上春樹的でもないのだ、と私は考えている。

 村上春樹さんはたまたま時代や環境に恵まれ、「山火事のようにタダ」なセックスというものを経験したためにセックスの代償として金銭を支払うということがどうしても理解できなくなってしまったのだが、夏目漱石は江戸が労働力確保のために過剰な性欲を持て余し、そこに需給バランスに基づいた色町が必要だった歴史を知っており、色町に吸収されない性欲が様々な形で庶民生活を形成している現実、つまり「俗」を捉えていた。

 その「俗」を果敢に楽しんだ達人に例えば永井荷風がある。

 一方夏目漱石作品はむしろそうでない女を描いた。確かにマドンナは給金の高い赤シャツに靡いたかに見え、美禰子も役立たずどもを見捨てて立派な紳士に嫁ぎ、三代子も資産家の御曹司の代助に乗り換えたかにも見えるが、御米は宗助の財産目当てではなかろうし、静も先生の財産に惹かれたとも思えない。俗世間では女は財産で男を選ぶものだが、漱石は敢えてそうではない世界に住まう女、性的嗜好の対象でもなく、金の奴隷でもない女を描こうとしていたようなところがあるのではなかろうか。ただ新聞小説という制約の中であけすけに性が描けないからではなく、寛一お宮でない世界、高等人種の世界を描こうとしたのではなかろうか。

 代助は門野の賞めた「煤烟」を読んでいる。今日は紅茶茶碗の傍に新聞を置いたなり、開けて見る気にならない。ダヌンチオの主人公は、みんな金に不自由のない男だから、贅沢の結果ああ云う悪戯をしても無理とは思えないが、「煤烟」の主人公に至っては、そんな余地のない程に貧しい人である。それを彼所まで押して行くには、全く情愛の力でなくっちゃ出来る筈のものでない。ところが、要吉という人物にも、朋子ともこという女にも、誠の愛で、已むなく社会の外に押し流されて行く様子が見えない。彼等を動かす内面の力は何であろうと考えると、代助は不審である。ああいう境遇に居て、ああ云う事を断行し得る主人公は、恐らく不安じゃあるまい。これを断行するに躊躇する自分の方にこそ寧ろ不安の分子があって然るべき筈だ。代助は独りで考えるたびに、自分は特殊人だと思う。けれども要吉の特殊人たるに至っては、自分より遥かに上手であると承認した。それでこの間までは好奇心に駆られて「煤烟」を読んでいたが、昨今になって、あまりに、自分と要吉の間に懸隔がある様に思われ出したので、眼を通さない事がよくある。(夏目漱石『それから』)

 代助は「誠の愛」などと云ってみる。それは待合で買うことのできるものでもなければ、妾から得られるものでもなかろう。それは天狗か河童の類で、売り買いできるものでもなければ食うことも出来ず、与えるものでも得るものでもないかもしれない。

 それは乞うこと、すなわちまだ得られないものを望む「恋」と、失われた淋しさ、その陽画と陰画に挟まれた幻で、三越百貨店にも東急ハンズにも売られていない、しかし本屋さんには置いてあるものである。アマゾンにもある。

 漱石に言わせれば「日本橋辺の金物屋の隠居の妾がいる。その妾が宮戸座とかへ出る役者を情夫にしている」というのも小説で、須永は自分で別の小説を持っているという。「借金の抵当に取った女房」も小説といえば小説だが、そうではないもの、須永市蔵と千代子の世界があるのだということを漱石はこう表現する。

 須永の話をだんだん聞いているうちに、敬太郎はこういう実地小説のはびこる中に年来住み慣れて来た須永もまた人の見ないような芝居をこっそりやって、口を拭ってすましているのかも知れないという気が強くなって来た。固よりその推察の裏には先刻見た後姿の女が薄い影を投げていた。「ついでに君の分も聞こうじゃないか」と切り込んで見たが、須永はふんと云って薄笑いをしただけであった。その後で簡単に「今日は咽喉が痛いから」と云った。さも小説は有っているが、君には話さないのだと云わんばかりの挨拶に聞えた。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 須永の小説は緒言で語られた「自分らしいもの」であった。妾が役者を情夫にする話がふりで、松本の話が落ちである。森本の話が散らかって、とりとめもなく感じられるのは失敗ではなく、成功である。漱石は三千代に「500円でどう?」とは言わせない。「山火事のようにタダ」だからではない。上等だからだ。愛は500円では買えない。630円で私の本は買える。


[余談]

御真影

 この右眉の上のものは、

昭和天皇

 いつの間にかなくなっていると、

 上げてみたけど、2653pvで反応ゼロ。

 人は本当に訳の分からないものに出会った時には、何も反応できないということなのだろう。乃木静子の死に関して漱石が『こころ』で問題提起しているなんて話も、同様に、無の感情でスルーされているのかな?



















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