見出し画像

『三四郎』を読む⑪ 青春小説を読むとはどういうことか

 子供の葬式が来た。羽織を着た男がたった二人ついている。小さい棺はまっ白な布で巻いてある。そのそばにきれいな風車を結いつけた。車がしきりに回る。車の羽弁が五色に塗ってある。それが一色になって回る。白い棺はきれいな風車を絶え間なく動かして、三四郎の横を通り越した。三四郎は美しい弔いだと思った。
 三四郎は人の文章と、人の葬式をよそから見た。もしだれか来て、ついでに美禰子をよそから見ろと注意したら、三四郎は驚いたに違いない。三四郎は美禰子をよそから見ることができないような目になっている。第一よそもよそでないもそんな区別はまるで意識していない。ただ事実として、ひとの死に対しては、美しい穏やかな味わいがあるとともに、生きている美禰子に対しては、美しい享楽の底に、一種の苦悶がある。三四郎はこの苦悶を払おうとして、まっすぐに進んで行く。進んで行けば苦悶がとれるように思う。苦悶をとるために一足わきへのくことは夢にも案じえない。これを案じえない三四郎は、現に遠くから、寂滅の会を文字の上にながめて、夭折の哀れを、三尺の外に感じたのである。しかも、悲しいはずのところを、快くながめて、美しく感じたのである。(夏目漱石『三四郎』)

 ここしばらくどうでもいいことを書いてきたので、そろそろ文学の本質的な話をしたいと思う。初心な田舎者、明治元年くらいの頭の意気地のない男、そう三四郎を笑おうとした人たちは、この三四郎が捉えた美をどう眺めただろうか。

   例えば言葉そのものはいささか軽いが、結果として「青春小説の金字塔」としての『三四郎』という見立てに私は大きく反対しない。子持ち女に迫られて風呂場から逃げ出す三四郎も、与次郎にライスカレーをおごられる三四郎も、美禰子に愚弄されたかとぷんすかになる三四郎も確かに青春だが、こうしてよその子供の葬式を美しいと感じる三四郎こそが青春であろう。裏返してみれば、よそもよそでないもそんな区別はまるで意識できないで生きている美禰子を見つめる三四郎が青春であろう。

 先に私は袈裟懸けに半分になった女の轢死体を見た翌朝、世界が今朗らかになったばかりの色をしている、と感じた三四郎を真面ではないと断じたが、よその子供の葬式を美しいと感じる感覚も、轢死体をすっかりどこかへ片付けてしまう感覚も、真面ではなくおためごかしですらない。生きている美禰子を見つめる三四郎は、けして袈裟懸けの轢死体には惚れない。よその子供の葬式を美しいとは思うものも、悲しいとは感じない。五色の羽の風車が一色になって回る。ライスカレーもアウフ・ベーンもひめいちも柔術家の学士も、どれか一つを切り取って、それが青春だと指し示すことはできない。五色の羽の風車が一色になって回る。与次郎の競馬の負けも、ヘリオトロープも、白い花も、弁当箱も、どれ一つ欠いても『三四郎』にはならない。

 さして明確ではないが、三四郎も与次郎も徴兵に取られて死んでしまっていたかもしれない存在であったかもしれない。その名からは二人とも長男ではないように臭わされているし、年齢が二十三歳ならかなりきわどいところだ。そういうぎりぎりの世界で三四郎は生きている。しかしそういうぎりぎりの世界は戦争がすっかりなくなったかのようにさえ思えるこの時代にも続いていると考えてよいだろうか。それは青春が政治や国家のありようなどというものに閉じ込められるものではけしてなく、五色の羽の風車が一色になって回る季節のようなものだからではなかろうか。

 小説から何かを取り出して論じる事、それが「時代」であれ「女」であれ「横たわる漱石」であれ「雨」であれ、そんなものは文学の本質とはまるで関係ないものではなかろうか。確かに何かの陥穽を指摘し、類型化するためには部分を取り出すにしくはない。ただそういう方法論ではけして追いつけないところに文学があることは、この引用文が象徴するところではなかろうか。なるほど矛盾している。この引用文も生身の肉体から引きはがされたおできのようなものに違いない。抉り出された後、皮膚は縫合され、膿を出した後、消毒を続けて抜糸を待たねばならない。その間は禁酒だ。チョコレートを食べると傷の直りが早いという。このチョコレートまでを含めて、文学なのだ。

 今日抜糸した。傷口はきれいだ。チョコレートのおかげだろう。

 よくよく考えてみればよその子供の葬式の美しさや柔術家の学士のエピソードなど、到底「あらすじ」には入れようがない。だから無意識の偽善者や新しい女が論じられるのであるが、それこそそれは本末転倒であり、例えば『絶歌』の肝は「たまごサンド」であり、『金閣寺』の肝は有為子であり、『三四郎』の肝は五色の風車が象徴するものなのではなかろうか。無論そういう意味では夏目漱石作品を象徴するのは天皇ではない。

  夏目漱石の文学論をいくらひっくり返しても、この「よその子供の葬式の美しさ」や「一色になって回る五色の風車」は技法としては見当たらないものだ。誇大法でも古典の引用でもなく、抽象事物の擬人法でもない。暗示でも歴史的現在でもなく、純美感でも道化趣味でもない。「情緒は文学の骨子なり、道徳は一種の情緒なり」と第二篇第三章「fに伴ふ幻惑」にある。「よその子供の葬式の美しさ」は「善悪界の外にある」。荘厳でも猛烈でもない。従って崇高でもない(fに伴ふ幻惑(い))。ただ、人間が今生きてあることと、ひたむきに生きることの真っ当さを比較的乾いた表現で的確に表している。俳句的というよりは詩的である。手慰みにしばらく漱石の俳句を繰っていたが、このような感覚は俳句には見つけられなかった。

 もしもこの「よその子供の葬式の美しさ」や「一色になって回る五色の風車」がなければ、私は「青春小説の金字塔」としての『三四郎』など認めはしなかっただろう。「臭いものの蓋をとれば肥桶で、見事な形式をはぐとたいていは露悪になるのは知れ切っている」と明治政府を批判しているから『三四郎』が青春小説の金字塔であるわけはない。「しかし測り切れないところがたいへんある」から青春小説なのである。

 もう一つ、別の筋から青春小説の金字塔と呼ばれているのが庄司薫の「薫くん四部作」である。その最後、『ぼくの大好きな青髭』は薫くんが新宿という青髭を好きになれると思うかい、という自問に対して、なれるわよと一条由美が励ますという結びで閉じられる。海のような大きな男になろうという薫くんの夢を応援する形で閉じられている。

 しかしこの自問は今の新宿でも渋谷でも成り立つだろう。大抵の若者はその時点で聳え立つビルディングのワンフロアの価値に遠く及ばない。無限の可能性というおためごかしではどうにもなりそうもない圧倒的な街に対して、若者は、あるいは人はいつでもあまりにも非力だ。巨大な鉄骨を吊り上げるクレーン車こそが力であり、大抵の人はクレーン車にはなれない。猫車で終わりだ。芥川龍之介の『トロッコ』も少年の不安を訴えた少年小説のようでありながら、それが二十六歳の良平の回顧によってみごとな青春小説となつている。

 良平は二十六の年、妻子と一しょに東京へ出て来た。今では或雑誌社の二階に、校正の朱筆を握っている。が、彼はどうかすると、全然何の理由もないのに、その時の彼を思い出す事がある。全然何の理由もないのに?――塵労に疲れた彼の前には今でもやはりその時のように、薄暗い藪や坂のある路が、細細と一すじ断続している。…………(芥川龍之介『トロッコ』)

 この二十六歳の確固たる不安を、誰しもが少なからず抱えているからこそ青春小説はその人の胸を打ち、時に勇気づけ、ふと我に返らせるのではなかろうか。

 モデルのアレクサンダーさんが2022年2月8日、高校生とみられるグループが高齢男性に暴行する現場に居合わせたらしい。喫煙を注意した85歳くらいのお爺ちゃんを殴る高校生からお爺ちゃんを救出したらしい。

 この件に関して「昔から変わらないことがある。悪いことをする人間は開き直っているということ。自分のしている行為にイチャモンを付けられたら相応の反撃をする気持ちが根底にある。」とコメントが寄せられていた。本当にその通りだ。ある種の頭の禿げた人は自らの過ちを正すことができない。悪いことをしてもごめんなさいが言えない。反省しないことで自分を守っているのだ。自分は悪くない。そう信じたい。

 少し前にもこんなことがあった。一時停止なしで飛び出した軽自動車に、自転車に乗った人がぶつけられそうになり文句を言ったが、運転席のお爺さんは謝らない。何もなかったような顔をしている。この人はずっとこうしてきたんだろうなと思った。もう何十年も、ごめんなさいが言えないで、そのまま死んでいくのだろうなと。こういう人を指して「大人とは年寄りの小供なり」(『文学論』)と呼ぶのだろう。それでこんな人ほど偉そうに人に説教していたりして。

 江藤淳が指摘している通り、人に善を説くことほど傲慢なふるまいはなかろう。朝礼で気持ちよくなる上司ほど滑稽な生き物はあるまい。そんなことは余程面の皮が厚くなければできることではない。

 ことは善悪や道徳に限らないが、小説にはそうした無用の心の殻みたいなものを溶かす要素があるのではないかと思う。三四郎の初心は「よその子供の葬式の美しさ」を感じられるところにも表れている。無理にそう思わなくてもいい。しかし『トロッコ』を読み返した直後なら、駅のホームで大きなリュックサックを背負った受験生らしき青年が無暗に回転しているのを睨みつけはしないだろう。

 青春小説は、開き直ったり強がったりと無用な心の殻で固めた自分を、巨大なものの前で立ちすくむ若者に引き戻してくれる。「よその子供の葬式の美しさ」や「一色になって回る五色の風車」は、もう自分自身では見出せないかもしれないが、まだかすかにその感覚が嗅ぎ取れることを確認させてくれる。そして再び巨大なものに立ち向かう勇気を与えてくれる。「臭いものの蓋をとれば肥桶で、見事な形式をはぐとたいていは露悪になるのは知れ切っている」とあるからといって、ただ臭いものの蓋をとるだけが私の使命ではなかろう。小説から「時代」や「女」や「家族」や「雨」が抽出されて論じられる近代文学1.0の終焉を弔い、近代文学2.0に向うこと、その苦悶をとるために一足わきへのくことは夢にも案じえない。

 



【余談】

去年、いや、一昨年、

『ドイツ語詩に柑橘類が登場したら、手の届かない遠い南国のこと』文化によって共有しているイメージが違う話「オランジュリーは富の象徴」

 …という話題があったが、アイルランドのムアーMooreの詩はどうなのだろう。

食卓せましと拡げられた果実と葡萄酒
カスピンの丘に輝くそれにも似た
黄金の葡萄━ とろける甘さの石榴
そして梨、コーブルの幾多の園が生んだ
陽の光の充ち溢れた林檎
黄金に緑に輝くバナナ
マラヤの神酒マンゴスティン
ポカラの李、はるかサマルカンドの森からやってきた
甘い、甘い木の実
そしてバスラの棗椰子、イランの地から運ばれた
太陽の種を偲ばせる杏子の実
ヴィスナ育ちの桜桃
オレンジの花に、苺の実
エラクの岩根│厳《こご》しい谷間で
若い羚羊が野生の瑞々しいままに食べるもの
これらすべての蜜も滴る砂糖漬け
(ムアー、『ララ・ルークLalla Rookh』夏目漱石『文学論』注解より)

 この詩はペルシア的異国趣味を横溢させたものであり、漱石はこれを詩趣的幻惑と断ずる。今、ドバイでは焼きそば麺麭が売られている。

もはや食べ物では詩趣的幻惑は成立しないのか。

 東京ばな奈で東京ばな奈カレーまんとか売っているし。ううん、詩趣的幻惑されちゃうなこれ。








この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?