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芥川龍之介の『手巾』をどう読むか② 三島由紀夫はどこに感心したのか

 深沢七郎には深沢七郎の良さがあり、三島由紀夫には三島由紀夫の良さがある。そう書くと何を当たり前のことをと怒られそうだが、芥川の良さというものは案外曖昧なのではなかろうか。夏目漱石はユーモアの達人であり、太宰治は罵倒名人だが、それだけではない。芥川の魅力の一つは知的なひねりだが勿論それだけではない。

 田山花袋が「何処が面白いのか」と評した『手巾』を三島由紀夫は短篇小説の極意とまで持ち上げる。

 既に『手巾』については、


 この記事で、述べている通り、一見のっぺりとした話のように見え、田山花袋の言わんとするところも解らないではない。しかし朝鮮団扇に気が付いてみれば面白い。恐らく三島由紀夫も朝鮮団扇に気がついたのではないかと思う。ただそれだけなのかどうかは精査の必要があろう。

 先生は、本を下に置く度に、奥さんと岐阜提灯と、さうして、その提灯によつて代表される日本の文明とを思つた。先生の信ずる所によると、日本の文明は、最近五十年間に、物質的方面では、可成かなり顕著な進歩を示してゐる。が、精神的には、殆ど、これと云ふ程の進歩も認める事が出来ない。否、寧、或意味では、堕落してゐる。では、現代に於ける思想家の急務として、この堕落を救済する途を講ずるのには、どうしたらいいのであらうか。先生は、これを日本固有の武士道による外はないと論断した。武士道なるものは、決して偏狭なる島国民の道徳を以て、目せらるべきものでない。却つてその中には、欧米各国の基督教的精神と、一致すべきものさへある。この武士道によつて、現代日本の思潮に帰趣きしゆを知らしめる事が出来るならば、それは、独り日本の精神的文明に貢献する所があるばかりではない。延いては、欧米各国民と日本国民との相互の理解を容易にすると云ふ利益がある。或は国際間の平和も、これから促進されると云ふ事があるであらう。

(芥川龍之介『手巾』)


 短篇小説は長編小説と違い物語のうねりのようなものを見せることができない。従って切り取られた一場面、その題材が八割がた価値を決める。そういう意味ではここで語られている武士道の価値というモチーフそのものが三島由紀夫の肌に合ったという側面は否定できまい。日本の文明を武士道で立て直すという発想は表向き三島由紀夫そのものである。

 しかし極意とまで言うところはモチーフだけでは達することができない。短篇小説の極意とは、背負い投げではないにしても、読み手の意外を言い当てることにある。つまりある意味で田山花袋のような九十九人がいて、一人に「なるほど」と思わせれば勝ちなのだ。

 私はそれを朝鮮団扇、「それらの平穏な調和を破らうとする、得体の知れない何物か」と解いた。

 だがほかにもありはすまいか。何か三島由紀夫だけを喜ばせるようなところが。

 先生は、本を膝の上に置いた。開いたまま置いたので、西山篤子と云ふ名刺が、まだ頁のまん中にのつてゐる。が、先生の心にあるものは、もうあの婦人ではない。さうかと云つて、奥さんでもなければ日本の文明でもない。それらの平穏な調和を破らうとする、得体の知れない何物かである。ストリントベルクの指弾した演出法と、実践道徳上の問題とは、勿論ちがふ。が、今、読んだ所からうけとつた暗示の中には、先生の、湯上りののんびりした心もちを、擾みださうとする何物かがある。武士道と、さうしてその型(マニイル)と――
 先生は、不快さうに二三度頭を振つて、それから又上眼を使ひながら、ぢつと、秋草を描いた岐阜提灯の明い灯を眺め始めた。……

(芥川龍之介『手巾』)


  この結びにはどうやら武士道に対する懐疑がある。

 そう書いてしまうと三島由紀夫そのものという前言と矛盾するようだが、三島由紀夫こそが武士道を「発見」しながら、その疑わしさに目をつぶり、一つの型として生きて、そして片付いた人であることを思うと、このモデルであろう新渡戸稲造に対するより深い洞察が見える気がするのである。

 誰であれ人は簡単なものではない。砂糖や塩のように純粋ではあり得ない。腹の中には何億もの菌がいる。武士道とは精神にもとめられるものではあるが、実際には行動でしか観察できない。そこには常に微妙なずれがあることを承知のうえで、そのわざとらしさを飲み込んでしまうのが武士道なのだ。

 三島由紀夫程わざとらしい人はいなかった。芥川を褒めているつもりでつい自分が出てしまうのはわざとらしいが、根はすなおなお坊ちゃんである。



 読む技術を教わっていない・教えていない。感想は「読めてこそ」あるものだ。


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