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本是山中人 愛説山中話 芥川龍之介の『手巾』の太い型

 夏目先生はペン皿の代りに煎茶の茶箕を使つてゐられた。僕は早速その智慧を学んで、僕の家に伝はつた紫檀の茶箕をペン皿にした。(先生のペン皿は竹だつた。)これは香以の妹婿に当たる細木伊兵衛のつくつたものである。僕は鎌倉に住んでゐた頃、菅虎雄先生に字を書いて頂きこの茶箕の窪んだ中へ「本是山中人もとこれさんちうのひと 愛説山中話とくことをあいすさんちうのわ」と刻ませることにした。茶箕の外には伊兵衛自身がいかにも素人の手に成つたらしい岩や水を刻んでゐる。といふと風流に聞えるかも知れない。が、生来の無精のために埃やインクにまみれたまま、時には「本是山中人」さへ逆さまになつてゐるのである。(芥川龍之介『身のまはり』)

 『羅生門』の出版パーティで書かれた「本是山中人 愛説山中話」が案外芥川龍之介の座右の銘のようなものではないかと考えた時、下人、多襄丸と続いた太い山中の人の系譜を見届けたくなる。繰り返し書いているようにそれは『或阿呆の一生』では完全に姿を消すものだ。『歯車』『河童』を探しても無駄だろう。

「云わんか? おい、わんと云うんだ。」
 乞食は顔をしかめるようにした。
「わん。」
 声はいかにもかすかだった。
「もっと大きく。」
「わん。わん。」
 乞食はとうとう二声鳴いた。と思うと窓の外へネエベル・オレンジが一つ落ちた。――その先はもう書かずとも好いい。乞食は勿論オレンジに飛びつき、主計官は勿論もちろん笑ったのである。(芥川龍之介『保吉の手帳から』)

 この「わん」が太宰の「わん」に繋がるというのが私の自説であるが、その話は別の機会に譲ろう。この保吉ものが中期芥川作品の箸休めであろう。ここで主計官と乞食の関係を傍観する保吉は当事者性を放棄して、『羅生門』に見られたような単純にして差し迫ったものから逃れている。平たく言えば保吉は乞食でもなく、乞食に「わん」と言わせようとする主計官でもない。

「だが賞与さえ出るとなれば、――」
 保吉はやや憂鬱に云った。
「だが、賞与さえ出るとなれば、誰でも危険を冒すかどうか?――そいつもまた少し疑問ですね。」
 大浦は今度は黙っていた。が、保吉が煙草を啣えると、急に彼自身のマッチを擦り、その火を保吉の前へ出した。保吉は赤あかと靡いた焔を煙草の先に移しながら、思わず口もとに動いた微笑を悟られないように噛み殺した。
「難有りがとう。」
「いや、どうしまして。」
 大浦はさりげない言葉と共に、マッチの箱をポケットへ返した。しかし保吉は今日もなおこの勇ましい守衛の秘密を看破したことと信じている。あの一点のマッチの火は保吉のためにばかり擦られたのではない。実に大浦の武士道を冥々の裡に照覧し給う神々のために擦られたのである。(芥川龍之介『保吉の手帳から』)

 盗人を捉え損ねてあべこべに海に放り込まれた大浦に対して保吉はあくまで冷ややかである。芥川はもう下人や多襄丸の立場に身入れすることが出来ない。そういう太い者たちに振り回される者たちに冷ややかな視線を向けるだけだ。とても「本是山中人 愛説山中話」ではない。

 いや先走り過ぎた。なんなら芥川龍之介はもうお陀仏しているので焦ることはないのだ。じっくり見ていこう。あちこちから酷評された『手巾』ではどうだろう。『手巾』は「新渡戸稲造をモデルに西と東の問題を取り上げた作品だった」(『芥川龍之介 闘いの記録』関口安義)とされる。

 東京帝国法科大学教授、長谷川謹造先生は、ヴエランダの籐椅子に腰をかけて、ストリントベルクの作劇術ドラマトウルギイを読んでゐた。
 先生の専門は、植民政策の研究である。(芥川龍之介『手巾』)

 先生の信ずる所によると、日本の文明は、最近五十年間に、物質的方面では、可成かなり顕著な進歩を示してゐる。が、精神的には、殆んど、これと云ふ程の進歩も認める事が出来ない。否、寧、或意味では、堕落してゐる。では、現代に於ける思想家の急務として、この堕落を救済する途を講ずるのには、どうしたらいいのであらうか。先生は、これを日本固有の武士道による外はないと論断した。武士道なるものは、決して偏狭なる島国民の道徳を以て、目せらるべきものでない。却つてその中には、欧米各国の基督教的精神と、一致すべきものさへある。この武士道によつて、現代日本の思潮に帰趣を知らしめる事が出来るならば、それは、独り日本の精神的文明に貢献する所があるばかりではない。延いては、欧米各国民と日本国民との相互の理解を容易にすると云ふ利益がある。或は国際間の平和も、これから促進されると云ふ事があるであらう。――先生は、日頃から、この意味に於て、自ら東西両洋の間に横はる橋梁にならうと思つてゐる。かう云ふ先生にとつて、奥さんと岐阜提灯と、その提灯によつて代表される日本の文明とが、或調和を保つて、意識に上るのは決して不快な事ではない。 (芥川龍之介『手巾』)

 こう書かれてしまうと確かに新渡戸稲造でしょうというよりない。植民政策、武士道、キリスト教、奥さんがアメリカ人…このさして工夫もなさそうな思索に突然芥川らしい難解なロジックが挟み込まれる。

――俳優が最も普通なる感情に対して、或一つの恰好な表現法を発見し、この方法によつて成功を贏ち得る時、彼は時宜に適すると適せざるとを問はず、一面にはそれが楽である所から、又一面には、それによつて成功する所から、動もすればこの手段に赴かんとする。しかし夫れが即ち型(マニイル)なのである。 (芥川龍之介『手巾』)


 ――私の若い時分、人はハイベルク夫人の、多分巴里から出たものらしい、手巾のことを話した。それは、顔は微笑してゐながら、手は手巾を二つに裂くと云ふ、二重の演技であつた、それを我等は今、臭味(メツツヘン)と名づける。……(芥川龍之介『手巾』)

 このロジックから日本の女の武士道だと賞讃した西山篤子の悲しみをこらえる型が見え、その悲しみが疑われるという話であればなんということはないのっぺりした話になってしまう。

が、先生の心にあるものは、もうあの婦人ではない。さうかと云つて、奥さんでもなければ日本の文明でもない。それらの平穏な調和を破らうとする、得体の知れない何物かである。ストリントベルクの指弾した演出法と、実践道徳上の問題とは、勿論ちがふ。が、今、読んだ所からうけとつた暗示の中には、先生の、湯上りののんびりした心もちを、擾みださうとする何物かがある。武士道と、さうしてその型(マニイル)と――(芥川龍之介『手巾』)

   それらの平穏な調和を破らうとする、得体の知れない何物か、とは何か。それは「皇室と人民との関係」であり、岐阜提灯ならぬ「朝鮮団扇」ではなかろうか。日韓併合が明治四十三年、明治四十五年には北京政府が成立する。下関条約によって明治二十八年から台湾は台湾総督府の支配下にある。ウイルヘルム第一世が、崩御し子供が泣き止まない。

 先生は、一国の元首の死が、子供にまで、これ程悲まれるのを、不思議に思つた。独り皇室と人民との関係と云ふやうな問題を、考へさせられたばかりではない。(芥川龍之介『手巾』)

 ウイルヘルム第一世は明治二十三年の昔である。比較されるのは明治天皇の崩御であろう。明治天皇の崩御で子供が泣いたという話は聞かない。『手巾』の書かれた大正五年(1916年)は第一次世界大戦の最中である。前年対華21ヶ条要求がなされている。さらにその前年にはシーメンス事件が起きていた。大正二年(1913年)は大正改変が始まる。今から考えると極めて剣呑な時代であった。西と東の問題はまさに芥川龍之介の現前にあったのだ。今でこそ解り難くなっているが平穏な調和を破らうとする、得体の知れない何物かとは当時の読者には明確に「西と東の問題」ではなかっただろうか。

 そんなことを昔話に隠すことなく、あからさまに書いてしまう芥川龍之介の太い型に対して、評価は分かれる。田山花袋は「何処が面白いのか」(『芥川龍之介 闘いの記録』関口安義)と酷評している。










 

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