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おばさん天皇ではない 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む52

解らないものが解る不思議


 どんなに親切ごかした残酷さであれ、梅好みの形式を構成する各分野において、なす術もない拡張は均一性の中に埋没せざるを得ないのだとしたら、いかなる意味でも男根ロゴス主義に辿り着くことのできない気色ばんだ言葉たちは、定刻まで沈黙をつつけることを誇りとするであろう。

 私はこれまでに平野啓一郎の『三島由紀夫論』の問題点として、

・三島天皇論の見極めの不確かさ
・細かい見落とし

 などを挙げてきた。なかなかわかりにくいところではあるけれどもう一つの傾向として「三島の屁理屈にまともに付き合いすぎている」という点も挙げられるのではなかろうか。

 いくら巧みに言いくるめようとしても屁理屈は屁理屈なのだ。そんなものをまともに相手をしてはいけない。

 例えば、

とどのつまりは誰かを殺して自刃することのほかに、真に「日本」と共に生きる道はないのではなかろうか?

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 これは平野啓一郎自身の言葉ではなく三島由紀夫の『暁の寺』の引用である。

 ごく普通に読めば、「死んどるやないかい」と突っ込むべきところだ。生きる道になっていない

 ごく普通に読めばね。

 これはこの後ずーっと真じゃない方の日本で一応日本人として生き続ける本多の老醜と変節のまえふりであろう。

 つまりここでは無駄に勲が持ち上げられ過ぎている訳で、これをそのまま理解してしまうと話がおかしくなる。だってこれは生きる道ではないのだから。屁理屈なのだから。

 確かに三島は勲の死を戯画化していないし、本多が勲の死をある意味立派だと見做していることは確かなんだけどそれは、飽くまで本多は勲の父親に突き付けた切腹か恥辱かの二択を(見える筈なのに)見ていないわけで、そこに読者をして「気がついてないのかよ」と突っ込ませる仕掛けがあるのに気がついていないとすれば、平野啓一郎も本多同様相当なうっかり屋さんである。

 そして本多は鬼頭槙子が密告者であったことを知らなかったはずなので、最終的に勲が蔵原暗殺に向かう決意を固める諸条件の全てを見ていたわけではない。つまり本多は勲の行動の意味の一部しか見ていない。

 ところが平野は本多の解釈を真面目に受け止め、正確だと言ってしまう。

 この「現実の日本や日本人」の全否定の根拠は「アンティ」としての天皇であり、真の「日本」であり、なるほど、この認識は、凡そ考え得る限り、最も社会の共感から遠い殺人と自刃を決行した勲の死の理解としては、正確なものである。——というより、作者の声そのものである。

(平野啓一郎『三島由紀夫論』新潮社 2023年)

 違うと思う。 

 全然違う。理解として正確ではない。正確であるためにはミスなく漏れなく理解することが必要である。漏れている。

 自刃の理由にはおそらく、こんなものがあっただろう。

①自死による暗殺の罪の精算
②「自分の女」と父親の密告により同志の純粋が穢されたことに対する償い
③死の覚悟、お別れの言行一致
④蔵原家からの資金援助に対する遠慮の払拭
⑤汚れた家で育てられた自分の始末
⑥父親へ切腹か恥辱かの二者択一を迫る握り飯
⑦財界の巨悪に対する天誅
⑧新河男爵に対する「金では買われない」という意思表示
⑨佐和の見せかけの殺意、裏切りに対する当てつけ
⑩不貞な母に対して童貞のまま死ぬという変な意地
⑪輪廻転生のお約束
⑫病気で死んじゃあますらおじゃないという判断
⑬あれ、天皇が出てこない? つまりそういう理屈を全部投げ打ってただ日輪を拝して死のうとした? それが不可能であると知りつつ夜に。

 まだあるかもしれないが、少なくともこれくらいのことが考えうるわけで、父親への握り飯が見えていないというだけでも「正確」ということはあり得ないよね。

 まあ、どっちにしろそれは結局生きる道ではなく死ぬ道である。ここも踏みとどまらないといけないところだ。

 勲には死ぬ道しかなかった、というのが暗黙の了解みたいになってそもそも勲の死は必然みたいなことになっているけど、そんなことはないよね。諸条件の組み合わせの結果として、たまたまこうなったわけだよね。『神風連史話』を読んだ時から方向性は決まっていたわけなんだけど、ちょっと思い出してみて。勲はいろんな人に『神風連史話』を読ませたけれど、反応はまちまちだよね。特に本多の感想は「熊本バンド」もあるよなんて、妙に冷静だったわけじゃない。

 いろんな人に色んな考え方があるし、やり方も様々だってことじゃない。

 もし密告者が槙子ではなく、佐和が槙子の密告の意味を別様に解釈していたら、それでも結論は同じだったであろうか。
 「槙子は親父を試したんだ、確信をもって……..」そんなところから父親に対する握り飯が出来上がることになったのではなかろうか。

 例えば勲が『家畜人ヤプー』の瀬部麟一郎のように去勢されたらどうだっただろうか?

 こういっては身も蓋もないが勲の行動の外観は豊田商事事件とさほど変わらない。見るたびに陰惨な印象しか感じないあの殺人事件もある角度から見れば正義であるに違いない。そのことを「最も社会の共感から遠い殺人」とは言っては見るものの、三島が「誰か」と曖昧に示したものを平野は日本人全体に拡大していないだろうか。父親に対する握り飯の見えないまま。

 三島由紀夫はテロを否定しない。勲はテロリストになった。外観はそうだ。

 勲自身が、自分とは全く別の考えを持って真面目に生きている人間を刺し殺そうとは思わないだろう。例えば毎日三時に起きて納豆を作り続けているだけのお婆ちゃんがいたとする。その納豆は結構人気で毎日売り切れる。年金もどんどん貰える。そんなお婆ちゃんを「守銭奴め!」と刺し殺しますかという話だ。   

 そもそも金閣寺は天皇であるという前提で考察する愚に気がつかない平野は、勲の目的が死で、勲の地図が紫に塗られるのは堀中尉の入れ知恵の後だという点を見落としてはいないだろうか。蔵原は日輪を拝して腹を切りたいという腹切りたい病の勲に利用されたに過ぎない。しかし死ぬべき理由はあった。殺すべき相手がいた。試すべき相手もあった。

 荒ぶる神でもなんでもいいが、勲は病気である。病気ではあるが最低限やるべき使命は負っていた。ただし天皇に関する理屈はめちゃめちゃである。

 そのことは仮に最初の空爆計画が実行され宮城までが破壊されたらと考えれば明らかなことではなかろうか。焼け跡で勲が、これが真の「日本」である、と叫び、全員に「切腹せよ、そうすれば高天原に行けるぞ」と言ったらどうする?

 兎に角勲が天皇に関して言っている理屈そのものはめちゃくちゃなものなのだ。神の概念も曖昧、天皇の概念も独特。

 大体真の「日本」って何なんだ?

 勲の純粋もまたかなり怪しいものだ。勲は宇気比もなしに決行の日を決め「一種の御神示だ」と言っている。

 神がもう現はれてもよいではないか。

(三島由紀夫『奔馬』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 しかし神が現れるわけもない。何の儀式もせず勲が自分の中で待っているだけなのだから。そこで勲は屁理屈をこねる。

 勲は嘘をつくとは思わなかつた。神が嘘とも本当とも指示なさらぬことを、人間がみだりに嘘と考へるのは僭越だつたにちがひない。ただ彼は、鳥が雛に餌を与へるやうに、早急に何かを与へなければならなかつた。

(三島由紀夫『奔馬』『決定版 三島由紀夫全集』新潮社2001年)

 ここは少しわかりにくいのでざっくり説明し直すと、決行の日を決めるのに宇気比をしない。まあ肉食を断ったり神社に参ったりと色々面倒なので省いたわけだ。そして勲の頭の中だけで神が待たれ、神の兆しはない。そこで屁理屈。

 神が嘘とも本当とも言っていないことを嘘というのが僭越?

 いや、それは嘘をつこうという前提で責任だけを物言わぬ神に預けているだけじゃない。

 そして勲は勝手に日にちを決め、一種の御神示だ、と嘘を言う。つまりかりに宇気比というものになにがしかの効力のようなものがあるのだと勲自身が考えていたとしたら、そのしかるべき手続きを経ずに、勝手に決行の日を決めてしまった時点でこの計画にはケチがついているわけだ。

 私がその場にいたら「なんで?」と訊くだろう。「いやいやいや、ここ大事なところでしょう。一種の御神示だって神のお告げがあったんですか? それともあなたが神様ですか?」と質問するものがいなかったのは、そういう雰囲気だったということだろう。それはいけない。ブラック企業の幹部職会議と一緒だ。そこはきちんとしないと。言い出せない雰囲気があればそれがもうブラックなんだよ。

 それでいいの?

 それで純粋?

 ここは完全に解らないところだ。こうした論理の破綻、解らなさの確認というのも正しい読みには必要なのではなかろうか。敢えて言えばここは最初からあやをつけさせるように破綻させている感じもなくはない。そこをスルーするのはよくないよな。

 さらに、

 この「現実の日本や日本人」の全否定の根拠は「アンティ」としての天皇であり

 この言い分は平野の解釈に沿えば、

 この「現実の日本や日本人」の全否定の根拠は昭和天皇である。

 こう言い換えることが出来る。そして日々一人一殺が繰り返されるのが真の日本ということになる。つまり昭和天皇はテロリストの親分になれる。そんなめちゃくちゃな理屈はあるまい。

 そしてこれが三島由紀夫自身の声だとするなら、三島由紀夫は誰一人殺そうとはしなかったという自説とどう折り合いをつけるのか。本多の言い分をまともに受け止めると、ただ腹を切ればいいという話にはなっていない。誰かを殺して、という条件がついているのだ。

 勲の理屈の部分を汲めば、むしろ救いはある。

・天皇陛下がいらっしゃるのに民が飢えているのはどうしてか
・外交に失敗し、農業政策に失敗して、華族や財界人が不当に私腹を肥やしているからではないか
・つまり天皇陛下では駄目だ
・宮様を担いで皇道政府を作ろう

 最初の計画の理屈の部分は解らなくもない。しかし最初の計画は突き詰められなかったので同志たちにも「宮城に本当の天皇はいない」「本当の天皇は日輪だ」という屁理屈は理解も反駁もされなくて済んだ。この屁理屈が明示的になるのは裁判の時だからである。 

 繰り返すが平野啓一郎の理解は、あくまでも自分が解らないところを無視したところで成立しているものなので、それで解ってしまっていることこそが問題なのだ。タイヤが三つしかない自動車が走っているようなものなのだ。

 最初の平野の勲の死に対する解釈をこう言い換えてみたらどうだろう。

 真の日本というものを想定することで現実の日本や日本人は全否定されうる。勲はそう考えてテロに及んだのだ。

 これだと「アンティ」としての天皇があぶれてしまうな。ところで「アンティ」としての天皇って何なのかね?

 ここも解らないなりに整理すると、

・天皇陛下がいらっしゃるのに民が飢えているのはどうしてか

 この勲の疑問というのは、

・何故神風が吹かなかったのか

 という疑問と同型の期待に過ぎないわけだ。だからあるべき皇道政府であれば民が飢えるわけはないという信念みたいなものは、もう毛沢東時代の中国共産党の嘘宣伝みたいなもので、そんなものはまあある意味天皇制に対する言いがかりだよね。

 だから真の日本なんて言われて民の飢えない国の責任を押し付けられる天皇も大変なんじゃないかと。でも平野啓一郎の言う「アンティ」としての天皇というのは多分そういうことだよね。

 つまり「アンティ」としての天皇というのはあくまでも実在しないもので、現実のだらしなさに対する理想の側に常に置かれていなくてはならず、いくら現実を現実的に改善しようと、常にその対極に置かれざるを得ないものになってしまう。

 それに対して勲は、裁判で、いささか空想的で観念的ではあるけれど光を注ぐことによって国民に喜びをもたらすものとしての真のお姿の天皇というものを言い出したわけなので、そんなものがどう具体化するのかという問題はさておき、勲の日輪的天皇というのは、現実の側にあるんだよね。まあ、いつでもお空にあるから現実かどうかは怪しいけれども。

 まあ、いずれにせよ「日々一人一殺が繰り返されるのが真の日本」なので仕方ない。この屁理屈は解らないでおいてやるのが正解ではなかろうか。

[余談]

 今更なんだけど、関係者の人で死にたくなったらまず現実的に考えてね。死んでも何も解決しないよ。三島由紀夫を冒瀆して終わりにすべきではないのではないかな。
 頑張って生きてやり直そう。


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