岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する153 夏目漱石『明暗』をどう読むか② 偶然の結果の必然
ラプラスとはどう違うのか?
この『明暗』の記述そのものは「原因があまりに複雑過ぎてちょっと見当がつかない」ものが偶然だという説明になっている。岩波の注では、ポアンカレは偶然というものがあるという立場にある。原因が計算不可能なものが偶然だと書いているようだ。私の勝手なイメージではポアンカレはむしろ微分方程式の研究から複雑なものを解きほぐす方向に向かったのではないかと、むしろ逆の捉え方なのだが、兎に角漱石が参照したと思しきところでは確かに偶然があるということになっている。
しかしその偶然がナポレオンを創り上げる、つまりナポレオンを創り上げる或特別の卵と或特別の精虫の配合というものは存在し、それは複雑過ぎてちょっと見当がつかないけれども、全く偶然にそういう配合が出来上がることがある、と述べているように理解できる。つまり偶然にそう言う配合が出来てしまえば、ナポレオンは必然的に英雄になるのだと。
このポアンカレの話は考えるたび解らなくなる。つまり偶然があると考えれば非決定論なのだが、ナポレオンを必然的に創り上げる或特別の卵と或特別の精虫の配合というものが存在すると考えると決定論的なのだ。
一方ラプラスは次のように主張した。
うろ覚えだが「対数を理解する者にとっては偶然はない」というような名言があったような気がして調べると「対数は天文学者の寿命を倍に延ばした」として対数による計算可能性の向上に言及していたことが解った。
このラプラスという人はなかなかしぶとくて、ただラプラスの魔という哲学的なバズワードを生んだだけではなく、ラプラスの魔そのものは現代ではかなり劣勢ではあるけれども、ラプラス近似によるベイズ推定などと言った形で「ほとんど想像がつかない」ところに近づこうとする考えの基礎として現代でもまだ重宝されているようだ。
このラプラス的なところではなく、敢えてポアンカレを持ち出すところが漱石のややこしいところだ。
津田はとりあえず「暗い不可思議な力が右に行くべき彼を左に押しやったり、前に進むべき彼を後に引き戻したりするように思えた」と自分の自由意志ではないところ、「暗い不可思議な力」が自分の行動を左右しているように思ってみる。しかしまた「ついぞ今まで自分の行動について他から牽制を受けた覚えがなかった」とし「する事はみんな自分の力でし、言う事はことごとく自分の力で言ったに相違なかった」と自己決定の立場を譲らない。
しかしポアンカレの話はむしろ「暗い不可思議な力」というものが津田由雄を創り上げる或特別の卵と或特別の精虫の配合の結果現れた津田の人生を支配するものとでも考えなければ整合性を持たないものである。
これは今でいえばDNAを調べると特定の病気に関する罹りやすさや免疫、はたまた寿命や好みの異性のタイプまで解る……という話に飛躍しかねないが、『明暗』はなんと大正五年の作品である。
夏目漱石の生きていた時代にはまだそんな発想そのものが出て來る余地もなかったはずだが、漱石は無機質なラプラスではなくポアンカレの「訳の分からない理屈」を持ち出すことで時代性を飛び越えてしまった。
何たる跳躍力。
男心の未練でしょうか
これまで「暗い不可思議な力」に類するものには「宿世の因縁」や「副意識」というものがあった。より現実的なものとしては『こころ』に「黒い影」のようなもの、つまり自分自身の強い罪の意識やKのトラウマのような心の枷というものがあった。よりオカルト的なものとしては、『彼岸過迄』に田川敬太郎の「頭の中に入ってきた怪しい色をした雲」というものが出てきた。これがもっと発展すると村上春樹の『羊を巡る冒険』で頭の中に入ってきた「羊」になるのかもしれないが、幸い田川敬太郎の「頭の中に入ってきた怪しい色をした雲」はそう悪さをしない。
津田はここでやはり明確に自己決定と自由意志というものを疑っているようではあるけれど、ただ「解らない」と疑問に思うだけで簡単な仮説を立てない。単純な『坊っちゃん』の「おれ」はうらなり君だけを贔屓にする理由を「どう云ふ宿世の因縁かしらないが」とあくまでも解らないなりに仮説を立てた切り放棄しているのに対して、津田は仮設を持たない代わりにそこにずっとこだわっている。
ここを「昔の女が自分をふった理由を追いかけるなんて既婚者のすることではない」、と一刀両断してしまえばそれまでの話だ。しかし「則天去私」とまで言い出して「道」に這入ろうとしていた漱石が、敢えて男と女がどうしてくついたり離れたりするのかを改めて考えているところが面白いと言えば面白い。それを「或特別の卵と或特別の精虫の配合」に結びつけようとする発想は、実は男女の愛の視点ではなく、子から見た親の組み合わせという視点によるものなのではなかろうか。
つまり清子と津田は親として組み合わせ的に相応しくない?
観察者によってあらわれる実在
ここに注が付かないとは、本当に読めているのだろうか。津田には雀が見えない、ステッキはお延が口に出すまでこの世界に存在しないがごとくである。
ある意味で世界はその見え方である。このことは随分書き尽くした様で、まだ少し書き足りない。病気、ポアンカレ、心変わり、自分の意思以外の何ものかに動かされている感覚……。そこからのこの「他者」の見え方の問題、つまり津田の目は津田の顔面に固定されていて、津田にはお延の見ているものが見えないという当たり前である筈の身体的問題を冷やかしてはいまいか。確固たる観察者である筈の自己が自分自身の全き操縦者、決定権者でもないという頼りないところ、いわゆる自恃のないところで津田はけしてお延にはなれない。津田は不自由な津田であるしかないのだ。
それと記憶違いかもしれないが、この雀の巣を見上げるお延は子供のできない寂しさをうんぬんという解説がどこかにあったように思う。まあ、そうして感情に寄り添うのも必要だがまずは理屈に寄り添って貰いたいものだ。
自由なカメラだ
この場面、カメラは格子戸の内側から津田を待ち受け。スイッチしてお延のお尻から撮影している。津田は自分の顔面に据えられた両眼でしか物が見えないのに話者のカメラは自由自在だ。なんでもできる。撮影スタッフも見切れない。上手いことをやるものだ。
流石に臭いとは言えない
後で出て來るが、津田は二か月も散髪に行かない。そんなサラリーマンはまずいないだろう。右下の人はやはりよろしくない。
痔瘻もあり、実は津田は臭かったのではないかと私は考えている。これでは清子にふられるのは当然である。風呂くらいは毎日入った方がいい。
診療時間は何時まで?
どうやら津田は勤め帰りに医者に寄ったらしい。昔のサラリーマンは三時上がりだったという話が『道草』の注にあった。ならば医者の外来診療窓口時間も書いておかないと公平性に欠けるのではなかろうか。
ちなみに当時はまだ健康保険法はなく、凡て自費診療だったと思われる。
岩波はここで、
……という注釈をつける。つまり「二人の小林」はたまたまではなく、その名は十分意図された仕掛けなのだ。しかしその説明がない。この二人の小林問題に関するすっきりした説明は今のところ私しか書いていないように思う。
これ、読まんかね?
[余談]
偉い。
[余談②]
偶然と必然の話、何か難しいことを言おうとしてこんがらがっているだけじゃないかと思った人は過去と瞬間と時間と持続について考えてみて欲しい。瞬間というものはあった筈なのにすぐになくなって過去に置き換わる。その区切りの発想そのものが間違っていて、実は瞬間などなく、持続のみがある?
因果とか偶然の前に過去と瞬間と時間と持続が矛盾したような訳の分からないものなので「なにかがげんにこうあること」そのものが不思議、つまり訳の分からないことなのではなかろうか。
単純な決定論、単純な非決定論ではないところで、どうも漱石には多元的宇宙ということをどこかで考えながら、生きたままの生まれ変わりを書こうとしていた気配がある。
例えば『こころ』の「私」はKの生まれ変わりのように仄めかされているのに年齢の計算が合わない。だから年齢が答えられない。それはただ矛盾を誤魔化しているだけではない。「私」同様小林も津田も訳の良からない存在だ。ただこれまで以上に哲学的なところに進んでいることは間違いない。
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