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谷崎潤一郎の『不幸な母の話』を読む (/ω\)イヤンな母親

 こんなことを私が書くまでもないが、村上春樹さんという人はとても常識的で優しい人で、真面目、作家としては珍しく、「真面ではないところ」の少ない人だと思う。そのことはエッセイ等を読めばわかると思うのだが、その一方で、極めて真っ当なテーゼと、極めて過剰な感受性の持ち主であることはあまり言われない。
 まず極めて真っ当なテーゼというのは『中国行きのスロウ・ボート』あたりから明確にみられ、また『本当の戦争の話をしよう』の後書きなどで明確に言語化されているが「些細なことほど取り返しがつかないものだ」というものだ。例えばなんとなく中国人の女の子を逆回りの山手線に乗せてしまうこと、これは些細なことだが取りかえしがつかない。
 そして極めて過剰な感受性とは、『ドライブ・マイ・カー』や『騎士団長殺し』などに見られる不作為に関する加害者意識である。例えば日本兵の戦争責任といったものを繰り返し作品に描き続ける事、妻が浮気をしたことに十分に傷つかなかったことを反省し続ける事、この感受性は「真面ではないところ」だ。こう言ってしまっては何だが、今元寇を反省しているモンゴル人など皆無だろう。南北戦争、会津戦争のしこりは残っているだろうが、原理原則しこりはやられた側だけに残るものなのだ。ノモンハン事件、南京大虐殺などをお気楽に作品に取り込んでしまうこと、そのお気楽さもまた真面ではないところと云えるかもしれない。こうした過剰な感受性は司馬史観の安易な受け売りと批判されるが、村上氏本人は海外から客観的に日本を見てきた結果だと強弁する。しかし肝心なことは、村上氏自身が不作為であることをどうしても認められないことなのだと私は考えている。

 これまで谷崎潤一郎はいくつもの「真面ではないところ」のヴァリエーションを書いてきたが、『不幸な母の話』では「十分すぎるほど傷つく親子」といういささか真面ではないものが描かれる。
 これもそう長い話ではないので筋はシンプルなものだ。兄と嫂、そして母が乗った船が転覆した。

 兄は嫂を助けた。

 結局母も無事だったのだが、その後母の様子が明かに可笑しくなった。どうも拗ねている。

 拗ねたまま母は死んだ。

 その後兄が自殺した。

 その「私」あての遺書には、嫂を助ける際、兄はそれと気づかず自分に縋りつこうとした母親を突き放してしまったと告白されている。

 その時兄は「二人だけでも生きなければ」と考えた。兄はむしろあの時自分が死ねばよかったと後悔する。そして「親殺し」の倅の顔を毎日見せねばならなかったと反省する。そのことで兄は自殺したのだった。
 
 いやしかし、結局三人とも無事だったので、そもそも「親殺し」などなかったのである。きびしい言い方だが、救命の際腕に縋りつかれては二人とも溺れてしまうので、そもそも母親の行動が間違いである。兄は殺されかけたのであり、殺したわけではない。
 それでも母親と兄が目を合わせていればまだ母親が拗ねるのも解る。拗ねたとしても厭味で済ませるのが普通じゃあなかろうか。地震が起こって、自分だけ逃げだしたら女房に叱られたみたいな逸話が漱石にあっただろうか。咄嗟の時の行動に本性が出るというものでもなかろう。それを最後まで拗ね通して、息子を自殺に追い込むなんて、母親としてどうかしていないだろうか? それでは勝手に自分で不幸を作り出しているようなものではなかろうか?

 ……と書いたところで、村上春樹さんなら「たらんで、たらんで谷崎」と文句を言うのではないかという気がしてくる。村上春樹さんなら「それと気づかず自分に縋りつこうとした母親を突き放してしまった」などという直接の関与がなくても、あるいはそれが母親ではなく叔母さんでも、あるいはそれが見ず知らずの他人でも、兄を自殺に追い込むかもしれない。
 要するに感受性の問題なのだ。
 ナチスとはけして相いれず、死刑廃止論者でもある村上春樹さんが、ドメスティックバイオレンスの証拠として写真数枚を見せられただけで、その容疑者(勿論勝手に私的に疑われているだけで、逮捕されている訳でもなんでもない人)を暗殺する青豆雅美というキャラクターを描いた時、私はやり過ぎちゃうかと思った。
 例えば私は三島由紀夫のサバイバーズギルトを過剰だと思う。過剰というか、変だと思う。方向性として捻じれているんじゃないのかと。何で未来志向でいけないのかと。

 いけない層、たとえば文藝報国会で散々アジっていた人たち(アジるって意味解りますよね? 鯵のなめろうをつまみに土佐鶴をくいっと一杯やることですよ)なんかは、流石に気まずいんじゃないかとは思う。保田輿重郎や蓮田善明などは気まずいとして、三島由紀夫はまだ子供だったんだから、切り替えていけばよかったんじゃないかと。

 さて『不幸な母の話』は、兄の自殺によって何かが救われる話ではない。ひたすら気まずさが残る。そういう仕掛けになっている。考えてみれば兄が遺書に何も書かなければ、不幸な母親は存在しなかったのである。息子に殺されかけた不幸な母親は、兄の遺書の中にのみあり、嫂は今も知らない。弟の「私」の中に植え付けられた、なんとも「いやん(/ω\)イヤン」な母親は、兄が創造したものなのだ。兄の告白は、母親の意地悪さをも露呈させるものだ。過剰な感受性は時によけいな不幸を捏造してしまう。谷崎の狙いはむしろそのあたりにあるのだろうが。

 






※ええと、みなさん、本当に本買ってね。スキとかどうでもいいから。

















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