見出し画像

岩波書店・漱石全集注釈を校正する48 普通の小説家は面はいいけど読むものがありますか?

 あまり真面目腐って他人の粗さがしみたようなことばかりしていると人間がせせこましくなっていけないので、今日はむしろ注を付けにくいところ、しかし作品読解や、漱石論としては摘まんでおくと面白いところを拾ってみようと思う。摘まむと云ったり拾うと云ったり少々いい加減だが、いい加減にやらないと届かないところもあるのだ。まずはここ。

普通の小説家

 しかし普通の小説家のようにその勝手な真似の根本を探って、心理作用に立ち入ったり、人事葛藤の詮議立てをしては俗になる。

(夏目漱石『草枕』)

 ここで言われる普通の小説家をどこの誰兵衛とまで特定する必要はあるまい。普通の、とは大雑把な括りだ。ただ明治文学史において、夏目漱石は後発であり、紅葉露伴の後色々あって、よく知られている自然主義他、家庭小説、深刻小説といった様々なジャンルが既に存在していたことは知識として頭に入れておいてもいいだろう。

観念小説
作者の観念を露骨に表明し、好んで人生の裏面を描写する小説。日清戦争後の文壇を風靡した一傾向。泉鏡花「外科室」、川上眉山「うらおもて」の類。

広辞苑 観念小説

深刻小説
社会の悲惨な様相に取材した小説。観念小説とともに日清戦争後の小説の一特色。広津柳浪「黒蜴蜓」、川上眉山「大盃」などがその代表作。悲惨小説。

広辞苑 深刻小説

家庭小説
①家庭向きの通俗・健全な小説。明治30年代に流行。菊池幽芳「己が罪」など。光明小説。
②主として家族関係に原因する家庭悲劇などを題材とする小説。

広辞苑 家庭小説

心理小説
作中人物の心理状態、あるいは心理的経過の分析描写を主とした小説。スタンダールの「赤と黒」によって確立され、ドストエフスキー、ヘンリー=ジェームズなどを経て発展した。日本では二葉亭四迷の「浮雲」がその先駆。

日本国語大辞典 心理小説

 これらの後に自然主義文学が興り、そのさなかに夏目漱石が非自然主義文学、浪漫派、風刺小説と呼ばれて盛んに人気を拝したと捉えて良いだろう。しかしこうした定義や小史は三島由紀夫の『奔馬』にあるとおり小さな矛盾を含んで成り立つものであり、初期夏目漱石作品、『カーライル博物館』や『倫敦塔』から読んでいた岩野泡鳴などにとっては漱石は泉鏡花以上に幻想的な作家であった。

現在法(Prosopopaeia)とは、過去または未來の事實を現在働詞を以つて發表し、まざまざと目前に出來て居ることであるかの樣に見せることだ。幻像(Vision)ともいふ。修辭小說家では、夏目漱石がよく之を用ゐる。

(『新体詩の作法』岩野泡鳴 (美衛) 著修文館 1907年)

 また比較的早く漱石論をまとめた大町桂月にとっては「夏目式」と言わざるを得ない程度にまとまらない存在であった。つまりこれまでのどの主義やジャンルからもはみ出し、新しい趣向を見せていた。一般的に心理小説と対置される観念小説も、あるいは光明小説、悲惨小説も、便利ツールなしで人の心に入り込んで無暗に詮索していたことは確かで、漱石はここでそうではないものを提示しようとしていると見受けられる。

『草枕』は之と異なりて、格を出でたる、所謂非人情小說也。文最も美也。警句最も多し。漱石自からも說明せる如く、美を美として描ける小說也。非人情の一畫家、温泉塲に赴きて、非人情の美人に遇ひ、之を描かむとすれど、何處か足らぬ處あり。されど、こゝぞとつきとめること出來ざりしに、停車塲裡、人を送りし時、その美人の顏に、『憐れ』が浮び出でしを見て、これだこれだこれで畫になると喜びたりと云ふだけにて、筋を云へば、極簡單なれども、筆底花を生じ、描寫神に入り、美をきはめ、妍をつくし、人をして畫裡に逍遙するの思あらしむ。その美人の面に『憐れ』を缺きて、畫にならざるを知るの漱石は、我が作にも、同じく『憐れ』。を缺くの不可なるを知らざるべからず。

(『半生の文章』大町桂月 著広文堂 1907年)

 これは『虞美人草』を途中まで読んでいる時点での大町桂月の見立てだが、「美を美として描ける小說」として漱石に押し切られている。まだ俯瞰で眺める位置にいないので仕方がない。これが現在ではこんな感じで嬲られるのだからたまらない。

 そもそも今更フロイトを持ち出して、フロイトに毒されていない漱石作品を考察しようという発想がいただけない。
 この人は、まさにこの記事を読んだら死にたくなるのではなかろうか。

 勿論フロイトにも汲むべき点はあるだろうが、彼の精神分析論はいわゆる「文学」であって科学ではないことは確認しておくべきだろう。たとえばリビドーとは観念なのかね? 実体なのかね? これが「ない」となるとリビドーに依拠した理屈が全て崩れてしまうけれど、後期フロイトはリビドーなる概念を放棄したようにしか思えない。当時は生気論と機械論の統合が期待されており、その気運をリビドー理論は上手く拾って人気を博したものの、それが何なのかという答えをフロイトは持たなかった。その外ポテンツ仮説とかいろいろ言われている中で、リビドーを実在するエネルギー、宇宙に遍在する愛のエネルギーとして発見したのがウィルヘルム・ライヒで、そのエネルギーはオルゴン・エネルギーと命名された。
 ライヒはそのオルゴン・エネルギーの研究を発展させ、降雨実験などを何度も成功させながら、今ではインチキ科学者として葬り去られている。(一部にはライヒアンと呼ばれる信者がいる。)
 現在ライヒの成果としては精々『ファシズムの大衆心理』がエーリヒ・フロムに先んじてのフロイト左派としての思想性が認められるのみで、『オルガズムの機能』などは珍本扱いである。
 そういう意味ではフロイトの精神分析も原理を欠いた空論として捨てるべきなのだが、近代文学1.0はとにかくフロイトを重宝してきた。
 その結果としてこんな頓珍漢な講義が行われているのだ。
 大概にした方がいい。

 動いても構わない。画中の人間が動くと見れば差し支つかえない。画中の人物はどう動いても平面以外に出られるものではない。平面以外に飛び出して、立方的に働くと思えばこそ、こっちと衝突したり、利害の交渉が起ったりして面倒になる。面倒になればなるほど美的に見ている訳に行かなくなる。これから逢う人間には超然と遠き上から見物する気で、人情の電気がむやみに双方で起らないようにする。そうすれば相手がいくら働いても、こちらの懐には容易に飛び込めない訳だから、つまりは画の前へ立って、画中の人物が画面の中をあちらこちらと騒ぎ廻るのを見るのと同じ訳になる。間三尺も隔へだてていれば落ちついて見られる。あぶな気なしに見られる。言を換かえて云えば、利害に気を奪われないから、全力を挙げて彼らの動作を芸術の方面から観察する事が出来る。余念もなく美か美でないかと鑒識する事が出来る。

(夏目漱石『草枕』)

 何も「美を美として描ける小說」が漱石の主義だというわけではない。この作の意匠だというのである。『こころ』の裏テーマは静が生き残るところにある。それが読めないでフロイトがどうだなんてやっているのは既に周りが見えていない、オカルトな信仰者に堕ちている証拠だ。フロイトを持ち出すならリビドーを発見してからにしてほしいものだ。
 で、何の話?
 勝手な真似の根本を探って、心理作用に立ち入ったり、人事葛藤の詮議立てをしては俗になる、とは書き方の話でもあり、読み方の話でもある。ないものをあるとしては詰まらない。悲惨小説のように読んではつまらないという話だ。


面はいいようだが、本当はき印ですぜ


「これから、そうしよう。何なら毎日来てもいい」
「そんなに長く逗留する気なんですか。あぶねえ。およしなせえ。益もねえ事こった。碌でもねえものに引っかかって、どんな目に逢うか解りませんぜ」
「どうして」
「旦那あの娘は面はいいようだが、本当はき印ですぜ」
「なぜ」
「なぜって、旦那。村のものは、みんな気狂だって云ってるんでさあ」
「そりゃ何かの間違だろう」
「だって、現に証拠があるんだから、御よしなせえ。けんのんだ」
「おれは大丈夫だが、どんな証拠があるんだい」
「おかしな話しさね。まあゆっくり、煙草でも呑んで御出なせえ話すから。――頭あ洗いましょうか」
「頭はよそう」
「頭垢だけ落して置くかね」

(夏目漱石『草枕』)

 話はここに繋がる。先に言ってしまうと『行人』にも繋がる。つまり人の心って何なのだろうという話だ。人の心がどうだって、脳科学者がマイクロジェスチャーを見極めるようにはいかないものの、どうしたって言動から察することになる。つまり画だ。「面はいいようだが、本当はき印」とは現代では面と向かって云われないまでも密かに囁かれはする。言葉を変えれば遠慮なく言われる。
 文章読解力がないと言われる。

 ある意味で「美を美として描ける小說」として『草枕』が成立したのは、「面はいいようだが、本当はき印」としないで「本当はき印だか何だか知らないが面はいいようだ」という意味の転換があってこそだろう。ここにフロイトやマルクスを持ってきても何もいいことは無い。
 例えば『行人』の一郎の苦しみは、テレパシーの研究までして直の心を知ろうとしたことだ。その点出戻りの精神病の娘さんの死体に接吻する三沢が『草枕』における「余」である。それでどこかの御令嬢とさっさと結ばれるのだから大したものである。

 むしろ『草枕』に一郎を持ってきたら随分浮いただろうなと思う。なに精神病同士うまく行ったかもしれない?

筋のほかに何か読むものがありますか

「勉強じゃありません。ただ机の上へ、こう開けて、開いた所をいい加減に読んでるんです」
「それで面白いんですか」
「それが面白いんです」
「なぜ?」
「なぜって、小説なんか、そうして読む方が面白いです」
「よっぽど変っていらっしゃるのね」
「ええ、ちっと変ってます」
「初から読んじゃ、どうして悪るいでしょう」
「初から読まなけりゃならないとすると、しまいまで読まなけりゃならない訳になりましょう」
「妙な理窟だ事。しまいまで読んだっていいじゃありませんか」
「無論わるくは、ありませんよ。筋を読む気なら、わたしだって、そうします」
「筋を読まなけりゃ何を読むんです。筋のほかに何か読むものがありますか」
 余は、やはり女だなと思った。多少試験してやる気になる。
「あなたは小説が好きですか」
「私が?」と句を切った女は、あとから「そうですねえ」と判然しない返事をした。あまり好きでもなさそうだ。
「好きだか、嫌いだか自分にも解らないんじゃないですか」
「小説なんか読んだって、読まなくったって……」
と眼中にはまるで小説の存在を認めていない。
「それじゃ、初から読んだって、しまいから読んだって、いい加減な所をいい加減に読んだって、いい訳じゃありませんか。あなたのようにそう不思議がらないでもいいでしょう」
「だって、あなたと私とは違いますもの」
「どこが?」と余は女の眼の中を見詰めた。試験をするのはここだと思ったが、女の眸は少しも動かない。
「ホホホホ解りませんか」

(夏目漱石『草枕』)

 やはり漱石の文学観にも変遷がある、というより波がある。『吾輩は猫である』から眺めると誠にその通り、どこか適当なところを開いて一下り読むとそれが面白い。毎回通して読むには少し分量が多い。

 この間帝国座の二宮君が来て、あなたの明治座の所感と云うものを読んだが、我々の神経は痲痺しているせいだか何だかあなたの口にするような非難はとうてい持ち出す余地がない、芝居になれたものの眼から見ると、筋なぞはどんなに無理だって、妙だって、まるで忘れて見ていますと云いました。なるほどそれが僕の素人であるところかも知れないと答えたようなものの、私は二宮君にこんな事を反問しました。僕は芝居は分らないが小説は君よりも分っている。その僕が小説を読んで、第一に感ずるのは大体の筋すなわち構造である。筋なんかどうでも、局部に面白い所があれば構わないと云う気にはとてもなれない。

高浜虚子あて書簡

 これが明治四十二年六月十二日のものなので(『草枕』は明治三十九年の作)、『草枕』に書かれている読書法が漱石の一貫した主張というわけでもなく、漱石自身が次第に筋や構造というところに物凄い仕掛けを考え付くようになる。

 とは言え、『草枕』はやはり筋そのものには重きを置かず、絵を描いたということになろう。

 身体を拭くさえ退儀だから、いい加減にして、濡れたまま上がって、風呂場の戸を内から開けると、また驚かされた。
「御早う。昨夕はよく寝られましたか」
 戸を開けるのと、この言葉とはほとんど同時にきた。人のいるさえ予期しておらぬ出合頭の挨拶だから、さそくの返事も出る遑いとまさえないうちに、
「さ、御召しなさい」
と後へ廻って、ふわりと余の背中へ柔かい着物をかけた。ようやくの事「これはありがとう……」だけ出して、向き直る、途端に女は二三歩退いた。

(夏目漱石『草枕』)

 これは余がフラッシュしているシーンである。

 こんな場面場面が『草枕』の面白みである。



[余談]

 芥川龍之介の『羅生門』における見事なカメラワーク、これが現代のわれわれ、『ミスター味っ子』から『鬼滅の刃』まで見てきた我々にこそ華麗なのだが、もしかしたら広瀬や久米など当時の人間からしたら、ただ目が回るものだったのかもしれないと昨日思いついた。

 要するに小津安二郎のような撮り方でこそ理解できるのであり、ズームインとかスイッチとか、ましてやハンディカメラでの縦に一回転などは、偉くもなんともなかった可能性もあるのではなかろうか。

 つまり、

 室を埋むる湯煙は、埋めつくしたる後から、絶えず湧き上がる。春の夜の灯を半透明に崩し拡げて、部屋一面の虹霓の世界が濃やかに揺れるなかに、朦朧と、黒きかとも思わるるほどの髪を暈して、真白な姿が雲の底から次第に浮き上がって来る。その輪廓を見よ。
 頸筋を軽く内輪に、双方から責めて、苦もなく肩の方へなだれ落ちた線が、豊かに、丸く折れて、流るる末は五本の指と分れるのであろう。ふっくらと浮く二つの乳の下には、しばし引く波が、また滑らかに盛り返して下腹の張りを安らかに見せる。張る勢いを後へ抜いて、勢の尽くるあたりから、分れた肉が平衡を保つために少しく前に傾く。逆に受くる膝頭のこのたびは、立て直して、長きうねりの踵につく頃、平たき足が、すべての葛藤を、二枚の蹠に安々と始末する。世の中にこれほど錯雑した配合はない、これほど統一のある配合もない。これほど自然で、これほど柔かで、これほど抵抗の少い、これほど苦にならぬ輪廓は決して見出せぬ。
 しかもこの姿は普通の裸体のごとく露骨に、余が眼の前に突きつけられてはおらぬ。すべてのものを幽玄に化する一種の霊氛のなかに髣髴として、十分の美を奥床しくもほのめかしているに過ぎぬ。

(夏目漱石『草枕』)

 こうした見事としか言いようのない漱石の描写も昔の人には何だか解らないものだったのかもしれない。これも夏目漱石がタイムトラベラーである証の一つであろうか。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?