世間は自分のズボラに適当するように出来上っていない
これは又世界の成り立ちの不思議なところかもしれない。
悪いのはどう考えても津田由雄なのだが、いつの間にか堀がズボラよばわりされている。要するに津田が約束の履行をすれば何ともなかったことなのである。約束の履行をしなかった津田が悪い。しかしどういう了見か話者は口利きをした堀の方に責任があるように書いている。
まあ津田はそもそも自分がどうして今の嫁を貰ったのか解らないような男なので、話者はそもそも津田をあてにしていないのだろう。話者に当てにされない主人公?
そういえば津田はそもそもこの話の主人公なのだろうか?
全く無邪気であった
話者がそういうのだからお延は無邪気なのだろう。では津田はどうか。津田はただ迂闊なだけなのだろうか。ここはどうもただ迂闊では片付かない感じがある。いわゆる病的、あるいは事件の感じがある。
つまりただ迂闊で指輪を買うかね、と考えてしまうところ。
この指輪が買われた経緯に関しては明示的ではない。何時、つまりどんなタイミングで、あるには何をきっかけで買われたものなのかが明かではない。
あるいはこの指輪が「現金の綺麗に消費されてしまった」といわれるところの原因の一つ、しかもかなり大きな原因であることは疑い得ない。要するに賞与が指輪に代わったのだろうということは何となく解る。解らないのはその時津田が何を考え、どう判断したのかということだ。
父親が金をくれないことに文句を言いながら、津田にはまるで反省も後悔もない。あるいは指輪のことなどまるで念頭にない。「指輪」という文字は九十五章でいきなり現れる。それまでは息をひそめて隠れていて、突然飛び出して来たかのように感じられるのだ。
津田は指輪を買った時の記憶がないか、自分の意思ではないところで指輪を買ったのではなかろうか。
結婚の件と云い、やはり津田は真面ではない。この真面ではないというところがロジックで解けなければやはり続編は書かれるべきではなかろう。
今のところ私には津田が何故指輪を買ったのか、その理由が定かではない。
いったいお父さんこそどういうつもりなんだろう
いや、知らんがな。
お前自身の問題だろうと言いたくなるところ。無責任というか、惚けているというが、全然他人事だ。そもそもこれは津田の父親がどうのこうのする話ではなくて、津田が何とかしなくてはならない問題だ。
ここも指輪同様迂闊とかだらしないで片付けられる問題ではないような気がする。図抜けただらしなさなどではなく、これは『明暗』の主題、自己決定と自由意志を巡る事件の一つなのではなかろうか。つまり結婚にも指輪にも借金にも津田は当事者として関与していない、少なくともそういう意識を持っているとしか読めない。
あるいは津田は自分自身の主人公にどうしてもなれないのだ。
父の品性
それにしてもここまで勝手な言い分があるだろうか。「下劣とまで行かないでも、狐臭い狡獪いな所も少しはあった。小額の金に対する度外れの執着心が殊更に目立って見えた」と言っているが、その「小額の金」も工面できないのが津田自身ではないか。
父親の品性もよくぞここまで見下されたものだ。
それにここで津田は堀がお金を立て替えてくれるというストーリーを勝手に拵えている。
妹の婿さんに金を借りる?
結局自分は何もしないでも誰かが金の補充をしてくれると信じている。
このいささか真面ではない無責な発想も、自分自身の主人公にどうしてもなれない津田だからこそ可能なのだろう。
できなければ死ぬまでの事さ
この「この事件について一番悪いものはおれだ」は当たり前。誰がどう考えても津田が悪い。津田の父親や堀には責任はない。秀子が悪いわけではない。
あえて言えば津田に指輪を買わせた「誰か」が悪い。普通に考えればその「誰か」は津田以外ではあり得ない。しかし自己決定できず自由意志もなく自分自身の主人公になれない男なら、指輪は「誰か」に買わされたものなのである。
実際「この事件について一番悪いものはおれだ」と言いながら、津田は本当は悪いとは思っていまい。そうでなければ「兄さんは甘んじてその罰を受けるから」とか「できなければ死ぬまでの事さ」などという言葉は出てこまい。勿論ここには作品の主題と分裂した夏目漱石自身の自殺願望が出ているところでも無かろう。
今手術を終えたばかりの人間ならば、死なないで生きるということがどれだけ大変なことなのか分かっている筈だ。この「できなければ死ぬまでの事さ」という言葉は、さして真実味のない、お秀に対する脅しにしかなっていない。
家には現に金がある
最初ここはよく分からなかった。あまりにも身勝手な津田の発想についていけなかったのだ。ここで「家には現に金がある」と言われている「家」は津田の家ではなく、津田の父親の家のことだと理解できるまでに少し時間がかかった。どこまでも津田由雄は親のすねかじりをするつもりらしい。これで恐らく世帯主で主人で旦那様なのだから恐れ入る。
しかし案外この程度のことは「金持ち」の身内に対して、金持ちでない側が持ちうるありふれた感情なのかもしれない。宝くじが当たっても誰にも話してはいけないというのはそういうことだろう。
どんな時にでもむかっ腹を立てる男ではなかった
こういわれているけれど、そもそも津田にはこの件に関してむかっ腹を立てる資格などない筈だ。「己れを忘れるという事を非常に安っぽく見る彼は、また容易に己れを忘れる事のできない性質たちに父母から生みつけられていた」と言いながら、津田には忘れるべき己れさえないように思える。ここは単に激高しないといわれているのではなく、コントロールする部機関上すら欠いていると言われているかのようだ。
断乎たる何物も出て来ない
やはり津田には覚悟などないのである。津田はお秀の様子を窺っていた。意識的かどうかは別として、「できなければ死ぬまでの事さ」という言葉はお秀に対して投げかけられたものなので、ここはお秀が「私が何とかする」というのを待っているのに等しい。
兄さんは淡泊でないから駄目よ
どうも「淡白」の意味が小林と秀子の間で偶然に一致している。お延と小林の間では同じ方向性で、お延の中でだけ、その淡白が齎す具体的な何かか加わっている。三人市虎を成すというが、こう言われるからにはやはり津田由雄は淡白ではないのだろう。
それを津田由雄本人だけが意味は分かるものの納得していない感じで誤魔化そうとしている。
この「淡白でない」は「好色」と言い換えてもいいだろう。何しろ津田は風呂場で待ち伏せするような男なのだ。
[付記]
岩波は、
……と注解をつける。
「九十二」「九十三」「九十四」「九十六」「九十七」が「あたし」、「九十九」は最初が「あたし」で次に、
ここのところで「私」に変わって、
ここで「あたし」に戻る。「百」も「あたし」、「百一」は「あたし」「私(わたくし)」✖2、「あたし」「あたし」。
岩波の注は「百二」の、
この「私(わたくし)」に付けられている。「妾(わたし)」はお延が三度使っただけで、お秀は使っていない。そして「真剣」は二度目に出てきたところで注が付けられる。
この世界はパラレルワールドなのだろうか。
きっとそうなのだろう。あなたと私はきっと別の『定本漱石全集』を読んでいる。