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岩波書店・漱石全集注釈を校正する49 焼き印が押してある豆腐屋が杉箸でとおふい 

都らしく宿の焼印が押してある

「聞かせてもいいが、何だか寒いじゃないか。ちょいと夕飯前に温泉に這入はいろう。君いやか」
「うん這入ろう」
 圭さんと碌さんは手拭をぶら下げて、庭へ降りる。棕梠緒の貸下駄には都らしく宿の焼印が押してある。

(夏目漱石『二百十日』)

 漱石の小説は不親切である。あまり最初に説明を置かない。説明しないで、順々に書かれていることから状況を理解せよという姿勢が貫かれている。棕梠緒の貸下駄に岩波の注はない。棕梠はヤシ科の常緑高木。棕梠緒の下駄は鹿児島の資料に三件、東京の資料に一件しか見つからない。何でも質素な下駄のようだ。南に来ている感じがする。


健児之社 上野篤 著中文館書店 1927年

 ここで「宿」とあるから圭さんと碌さんが旅館にいることがようやく分かる。ここまでは分からない。分からないように書いている。なんなら碌さんの名前が出て來るまでに千字くらいかかっている。この作法は『虞美人草』の冒頭、甲野、宗近の名前がなかなか出てこない下りに似ている。
 この引用部は第一章の終わり。ここまでに現れる言葉一つ一つを拾っていかないと状況は分からない。
 即ち、「東京の真中でも出る事は出るが、感じが違うよ。こう云う山の中の鍛冶屋は」とあるから、ここが東京ではない山の中だと解る。「隣りの部屋で何だか二人しきりに話をしている」とあるからどこかの部屋にいることが分かる。ただ旅館とまでは判然としない。「ちょいと夕飯前に温泉に這入はいろう」と「宿の焼印」でようやく温泉旅館に宿泊しているのかと分かる。漱石の意識は不確かながら、棕梠緒の貸下駄にもどこか質素で鄙びたニュアンスが込められてはいまいか。
 

豆腐屋が馬車なんかへ乗るんだ

「屋根にかぼちゃが生なるようだから、豆腐屋が馬車なんかへ乗るんだ。不都合千万だよ」
「また慷慨か、こんな山の中へ来て慷慨したって始まらないさ。それより早く阿蘇へ登って噴火口から、赤い岩が飛び出すところでも見るさ。――しかし飛び込んじゃ困るぜ。――何だか少し心配だな」

(夏目漱石『二百十日』)

 ここで「阿蘇」が出て宿が熊本と確定する。そしてここで「豆腐屋」の意味が圭さんから「華族や金持ち」へといきなり転じている。順々に書かれていることから状況を理解せよという書き方をしておいて、言葉の意味を転じるのだからなお意地が悪い。この「豆腐屋」は「ももんがあ」を経て、やがて最終形態「文明の怪獣」にまで発展する。

ここいらの饂飩はまるで杉箸を食うようで

「うふん。時に昼は何を食うかな。やっぱり饂飩にして置くか」と圭さんが、あすの昼飯の相談をする。
「饂飩はよすよ。ここいらの饂飩はまるで杉箸を食うようで腹が突張ってたまらない」
「では蕎麦か」
「蕎麦も御免だ。僕は麺類じゃ、とても凌げない男だから」
「じゃ何を食うつもりだい」
「何でも御馳走が食いたい」
「阿蘇の山の中に御馳走があるはずがないよ。だからこの際、ともかくも饂飩で間に合せて置いて……」
「この際は少し変だぜ。この際た、どんな際なんだい」
「剛健な趣味を養成するための旅行だから……」
「そんな旅行なのかい。ちっとも知らなかったぜ。剛健はいいが饂飩は平に不賛成だ。こう見えても僕は身分が好いんだからね」
「だから柔弱でいけない。僕なぞは学資に窮した時、一日に白米二合で間に合せた事がある」
「痩せたろう」と碌さんが気の毒な事を聞く。 

(夏目漱石『二百十日』)

 この「ここいらの饂飩はまるで杉箸を食うようで」とは、饂飩が堅いという意味に取れる。「こう見えても僕は身分が好いんだからね」に対して「饂飩は馬子が食うものだ」と注を付けるのはいいとして、この饂飩そのものの違いをどう理解すべきであろうか。
 今ではよく知られているように九州北部のうどんは柔かく腰がない。では熊本のうどん、明治時代の熊本のうどんはどうだったのか。これが明治時代に日本に伝わり、現在の熊本でもご当地面として知られる「太平燕」であれば、「ここいらの饂飩はまるで杉箸を食うようで」という記述と合致する。「太平燕」は春雨の麵だからだ。いわゆる小麦の麺のもっちり感はなさそうだ。

 無論、細いか透明かと考えてみると「ここいらの饂飩はまるで杉箸を食うようで」とは麵が杉箸のように固いのではなく、むしろ口の中で杉箸ばかりをしゃぶっているように、麺に存在感が乏しいという意味ではないかとも一応は考えられる。そう捉えなおしてみると「存在感のなさ」は「こしのない麺」にも当てはまるのだが、「腹が突張ってたまらない」というところとうまくつながらない。

 しかしここもまた「腹が突張ってたまらない」を満腹の意味、「腹がくちくてたまらない」「腹が膨れてたまらない」と解釈しているからで、「蕎麦も御免だ。僕は麺類じゃ、とても凌げない男だから」と言われてみれば、「腹が突張ってたまらない」は「腹がくちくてたまらない」ではなくて、むしろ饂飩なんぞでは空腹が満たせず、腹が減って痛くなることを言っているのではないかとも考えられなくもない。

 いずれにせよ用例に乏しい。

とおふい、油揚、がんもどき

 

「なあに困らんさ、そんな事で困っちゃ、今日まで生きていられるものか。これから追い追い華族や金持ちを豆腐屋にするんだからな。滅多に困っちゃ仕方がない」
「すると僕なんぞも、今に、とおふい、油揚、がんもどきと怒鳴って、あるかなくっちゃならないかね」
「華族でもない癖に」
「まだ華族にはならないが、金はだいぶあるよ」
「あってもそのくらいじゃ駄目だ」
「このくらいじゃ豆腐いと云う資格はないのかな。大いに僕の財産を見縊ったね」

(夏目漱石『二百十日』)

 豆腐屋の喇叭も今では聞かれなくなった。

豆腐屋さんと言えば、「トーフー」と吹いて売り歩く「豆腐屋さんのラッパ」。 昭和40年代までは、だれもが知っていた耳馴染みの音でした。 豆腐屋さんがラッパを吹き始めたのは日露戦争後とのことで、日露戦争前は朝顔形の鈴(レイ)を振っていたものが、日露戦争の勝ち戦さ気分でラッパを吹くようになったそうです。


 ここでは豆腐屋が直接声を出す少し古い販売形式が書かれている。

時雨笠 村上浪六 著駸々堂 1902年

 確かに明治三十九年以前には豆腐屋の呼び声というものがある。

錬膽夜間遠足 早田玄道 著大学館 1902年

  がらんがらんと鳴り物も用いられたようだ。


木乃伊の口紅 田村俊子 著牧民社 1914年

 豆腐屋の呼笛というものも一つ見つかる。こうした時代の風俗はたちまち曖昧になり、やがて意味不明になりかねない。今のうちにわかる範囲で説明しておきべきなのだろう。この呼び声、色んな表現で探してみたが、具体的にはまだこれというものが見つからない。

毎朝床の中でうとうとしながら聞く豆腐屋のラッパの音がこのごろ少し様子が変わったようである。もとは、「ポーピーポー」というふうに、中に一つ長三度くらい高い音をはさんで、それがどうかすると「起きろ、オーキーロー」と聞こえたものであるが、近ごろは単に「ププー、プープ」というふうに、ただひと色の音の系列になってしまった。豆腐屋が変わったのか笛が変わったのかどちらだかわからない。
 昔は「トーフイ」と呼び歩いた、あの呼び声がいったいいつごろから聞かれなくなったかどうも思い出せない。すべての「ほろび行くもの」と同じように、いつなくなったともわからないようにいつのまにかなくなり忘れられ、そうして、なくなり忘れられたことを思い出す人さえも少なくなりなくなって行くのであろう。
 納豆屋の「ナットナットー、ナット、七色唐辛子」という声もこの界隈かいわいでは近ごろさっぱり聞かれなくなった。そのかわりに台所へのそのそ黙ってはいって来て全く散文的に売りつけることになったようである。
「豆やふきまめー」も振鈴の音ばかりになった。このごろはその鈴の音もめったに聞かれないようである。ひところはやった玄米パン売りの、メガフォーンを通して妙にぼやけた、聞くだけで咽喉のどの詰まるような、食欲を吹き飛ばすようなあのバナールな呼び声も、これは幸いにさっぱり聞かなくなってしまった。

(寺田寅彦『物売りの声』)

 これが既に昭和十年の記録で、明治の豆腐屋の呼び声は解らない。

 こうなるともうほとんど「とおふい、油揚、がんもどき」が唯一の記録みたようになってしまって一向に要領を得ない。

 そういえば――影は尖って一番長い、豆府屋の唐人笠も、この時その本領を発揮した。
 余り随いて歩行いたのが疾しかったか、道中へ荷を下ろして、首をそらし、口を張って、
 ――「とうふイ、生揚、雁もどき。」――
 唐突に、三人のすぐ傍で……馬鹿な奴である。

(泉鏡花『薄紅梅』)

 これは昭和十四年に書かれているが、書かれているのは明治の何年なのだか一向に要領を得ない。


[余談]

 今物売りの声は「さおだけ」と「灯油」くらいだろうか。「りんご売り」もなくなった。「金魚売り」も。

 いやむしろ「バーニラ、バニラ、バーニラ、ハイ、ハイ」なんてのが増えて久しい。



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