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芥川龍之介の『歯車』をどう読むか24 雨は一度も降らない
並んで第一ホテルを出ると雨であった。鋪道の濡れ方で、もう一時間も前から降っていたと判った。少しの雨なら直ぐ乾き切ってしまう真夏の午後なのだ。
一時間も前から降っていたということがいきなり信吉を憂愁の感覚で捉えてしまった。しかし、この寂しさは一体何であろう……。
雨が降るということには、何の意味もない。チエホフの芝居の主人公なら、
「雨が降っている、これは何の意味です。何の意味もありやしませんよ」
と言うところであろう。
雨が降っている……。極めてありふれた自然現象に過ぎない。
しかし、このありふれた現象が自分の知らぬ間に起っていたということが信吉には新鮮な驚きであった。
織田作の小説は既に引用した。「も」の意味に気がついてさえ見れば、どうしても「いいえ、芥川龍之介」のところで噴出さざるを得ない。(※とはいえ、「も」の意味に気がついていない人の何と多いことか! そして私の本を買わない人の何と多いことか!)
この『夜の構図』は、その書き出しで『歯車』では一度も雨が降りませんが、と揶揄っているようで面白い。(※『夜の構図』が芥川龍之介を意識した作品であることさえ疑う人がいるかもしれない。『夜の構図』にはなんと「芥川龍之介」という文字がそのまま出て來る。)
そう言われてみれば、確かに『歯車』では一度も雨が降ることがない。これは何の意味です。何の意味もありやしませんよ。とりあえずはそう言ってよいだろう。しかし織田作という作家は実に突拍子もない。
「僕は雨男ですね、旅行するときっと雨が降るんですよ。あんたは雨がきらい……?」
すると伊都子は、
「雨はきらいだけど、雨男は好きよ」
「どうして……?」
「だって、雨ぐらい降らせることの出来る男じゃなくっちゃ詰らないわ」
絶対『歯車』を揶揄っているだろ、と言いたくなる。確かに「僕」は雨さえ降らすことのできない詰まらない男だ。それにレエン・コオトの男を恐れている。
都電に乗ると、隣に坐っていた男が、
「やあ、暫らく……」
と、声を掛けた。
四十前後の色の蒼白い男だった。よれよれのレインコートを着ている。
全然見覚えはなかった。
「いいところで会いましたね」
「失礼ですが、あんたは……?」
「あんたは……? あはは……。あんただなんて……」
笑い出した。
「文久三年に品川沖であんたという名前の鯨がとれたことがある。あんたという名前ですよ。あはは……」
笑っていたが、急に真面目な顔になると、
「――どこまで……」
「東京劇場まで……」
「じゃ、あたしと同じだ。ご一緒に参りましょう」
「失礼ですが、どなたですか」
「名前は明かせない……」
「えっ?」
「いや、名前は明かせないと言ってるんですよ」
「なぜ明かせないんですか」
「明かすと、あなたは土下座しなくちゃならない」
「えっ……?」
信吉は思わずきいた。
すると、男は急に笑い出した。
乗客はびっくりして、その男の方を見た。
信吉は照れて、起ち上ろうとすると、
「逃げるんですか」
その男はいきなり信吉の腕を掴んだ。
織田作之助の『夜の構図』という小説の設定としてずっと雨なので、たまたまレインコートを着た男が現れても不思議ではない。しかし信吉につけられた渾名が芥川龍之介ならば、ホテルで女と寝ることも、レインコートを着た男に絡まれることもまるで『歯車』のパロディのように思えてしまう。
信吉はふと、
「蛇。――あんまり長すぎる」
というルナアルの「博物誌」の中の言葉を想い出した。
にょろにょろ君まで揶揄われている。
(※ルナアルの「博物誌」は芥川龍之介の『保吉の手帖から』の毛虫のところで参照されている。)
「じゃ、ベーゼするのはよした。いい子になろう」
と、肩にのせていた手をはなした。
「ベーゼしないことがいい子なの……?」
「そうだ。つまり僕は女たらしだからね。やはり、しちゃ悪いよ」
「女たらしに見えないわ」
いや、繰り返すが、この信吉の渾名は芥川龍之介なのだ。
「――それとも、あなたは自分自身を一流だと思いますか」
喋りつづけて来た信吉は、最後にズバリとそう言った。随分意地の悪い言葉だが、しかし、その前に信吉は、自分は二流だという申告をしていたから脱税行為にはなっていなかった。
だから、薄井もちょっと反駁のしようがなく、暫らく、乾燥バナナの中に毛虫を見つけたような顔になっていたが、
「じゃ、君なんか恋愛をしても、二流の恋愛しかしないんだね」
そう言いながら、ちらと冴子の顔を見た。
そしてまたもやにょろにょろ君まで出て來る。
いや、『歯車』では雨は一度も降らない。それはただの自然現象ではなく、『歯車』もまた特殊な空間なのだということなのだろう。その空間は開かれていて、いつでも迷い込むことができる。限られたものだけが。そこに織田作も迷い込んだように思える。なにしろ織田作之助の『夜の構図』は芥川が『歯車』に与えようとした題名の一つ『東京の夜』という題名でもおかしくはない。
何の話?
確証バイアスの話だ。
何かを何かだと思いこむ。そうすると、自分が欲しい情報だけに目を向けて、要らない情報を排除してしまう。
具体的に示そう。
〇「寒中」✖「この夏」
〇「A先生」」✖「夏目先生」
〇「轢死」✖「十年前」
どう考えてもごまかされた「A先生」より「夏目先生」の方が確かな存在ではないかとは思うが、なかなかそうは読めないものらしい。それはそれでいい。実際『歯車』は確証バイアスに陥る男が描かれ、読者も確証バイアスに引き込んでいるからだ。
ただ読書を楽しむという意味でなら、確証バイアスを楽しむこともまたありだろう。たとえば『歯車』の後に『夜の構図』を読んで大笑いする。それは「創造的誤読」などというおためごかしではけしてない。
それにしてもここで「芥川龍之介」とはよく書いたなと感心する。
こんな風に読んでもいいんじゃないというだけのお話でした。
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