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『彼岸過迄』を読む 19 雷獣とそうしてズク

 読むということ、丁寧に読むということはそんなに難しいことではありません。今のようなネット環境があってこそ可能な読み方というものもあります。これで読みの可能性がどんどん広がっていますね。しかしいくらネット環境があっても、誤読する人は誤読します。書いてあることを読まないで、書いていないことを勝手に付け足すからです。

 自分は確かに『彼岸過迄』を読んだという人は、田川敬太郎の下宿の主人がどういう人なのか解っているでしょうか。

 好奇心に駆られた敬太郎は破るようにこの無名氏の書信を披いて見た。すると西洋罫紙の第一行目に、親愛なる田川君として下に森本よりとあるのが何より先に眼に入った。敬太郎はすぐまた封筒を取り上げた。彼は視線の角度を幾通りにも変えて、そこに消印の文字を読もうと力めたが、肉が薄いのでどうしても判断がつかなかった。やむを得ず再び本文に立ち帰って、まずそれから片づける事にした。本文にはこうあった。
「突然消えたんで定めて驚ろいたでしょう。あなたは驚ろかないにしても、雷獣とそうしてズク(森本は平生下宿の主人夫婦を、雷獣とそうしてズクと呼んでいた。ズクは耳ズクの略である)彼ら両人は驚ろいたに違ない。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 この「雷獣とそうしてズク」について、漱石は細々と説明しません。つまり旦那の方はぎょろ目で、奥さんはさぞやかましい女だったのでしょうか。酒鬼薔薇君が使ったレトリックを夏目漱石が真似ています。

 どうでもいいようなことに聞こえるかもしれませんが、小説というものは、そうしたレトリックの積み重ねの上にあるもので、例えば酒鬼薔薇君のレトリックを認められないような人には、やはり夏目漱石が読めていないことになります。レトリックって麻雀で言えば役みたいなもので、役がある程度解っていないとなかなか勝てませんよ。

 そしてここで夏目漱石がズクの説明をしていて、酒鬼薔薇君がイモジリさんの説明をしていないことを再確認しても貰いたいのです。「ずく」でそのままミミズクの別称で、それは「イモジリ」に比べればはるかに多い用例があるわけです。

 夏目漱石の方が腰が引けています。説明してしまっています。

 それからこれは何なのか解らないことがあります。「雷獣とズク」と云ってもいいんじゃないかなというところで「雷獣とそうしてズク」が使われていて、「雷獣とそうしてズク」は計四回使われているんですね。何故なのかは分かりません。こういうレトリックにはちょっと思い当たりません。何か言葉がかかっているということもなさそうです。ここは引っかかるには引っかかりますが、一応保留としておきます。

 さて、本題です。私は「雷獣とそうしてズク」の雷獣を奥さん、ズクを旦那と勝手に決めつけて少し間を置きましたが、気が付きました?

 ません?

 作中では、「神さんは多少心元ない色を梟のような丸い眼の中に漂わせて出て行った」とあるので、実は逆ですね。雷獣が主人、ズクが神さんです。主人夫婦が「雷獣とそうしてズク」と例えられているので、一方がズクなら、もう片方は書かれていなくてもロジックから雷獣ということになりますね。

 そう気がついて主人の雷獣らしき特色を捜すと、これがなかなか見つかりません。煙管をぽんぽんと雷獣はイメージ的につながりません。しかしこれ、テストに出たらなんて答えますか?

 みなさんは主人はどんな人だと思いますか?

 いや、どう読みましたか?

 まず落ち着いていますね。それから多少法律の知識があります。田川敬太郎の部屋が三階、風呂付の下宿なので、それなりに堅実な貸家業を営んでいると考えてよいでしょう。

 正直な彼は主人の疳違いを腹の中で怒った。けれども怒る前にまず冷たい青大将でも握らせられたような不気味さを覚えた。この妙に落ちつき払って古風な煙草入から刻みを撮み出しては雁首へ詰める男の誤解は、正解と同じような不安を敬太郎に与えたのである。彼は談判に伴なう一種の芸術のごとく巧みに煙管を扱う人であった。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 なんだかこれでは、全く雷獣らしくないですね。いわば「実際家」ですよね。ネゴシエイターみたいじゃないですか。パワープレイで、灰皿をやや相手側に押すとか、自分が光源の側に坐るなんていうものがありますが、交渉しながら煙草を吸うというのもパワープレイですね。さして意識しないで普通にやっていますが、煙を吐くというのも、大きな衣装を着るというのも、自分を拡張させるパワープレイです。小林幸子やザジーはパワープレイをしているのです。

東海之山有雷獸。其形似猫兒而較小焉。在平常茹草飮水。陰匿怯伏殆不若佗獸。若或天威炎熟地氣鬱蒸。登山嶽攀崎岫 嘘氣摩威。(『鶴巣集』原坦山 著仏仙社 1884)
新田花田村に落雷があつた。ひどい雷の轟き、物妻い電の閃めきが静まつた頃、村の人々はてんでに家の戶を細目に開けて、丁度落雷したあたりを見やつた。すると、その雲の晴れ渡つたあたりに、怪しい獸が一匹うごめいてゐる樣子、村の人達が、急いで其あたりに近づいて見ると、總身は中くらゐの犬程の不思議な獸で、毛の長さは三寸、足の長さ五寸ばかり、尾の長さ五寸ばかり、然も前足を總身から直に付けてゐる怪獣で、全ての樣子が土龍の形に似てゐるものだが何獸とも見當のつかない怪しい獸であつた。(『日本伝説叢書 北武蔵の巻』藤沢衛彦 編日本伝説叢書刊行会 1917年)

 こう書いてあるのを読むと雷獣は得体の知れない生き物ですが、『日本伝説叢書 安房の巻』によれば、漢土ではこれが捕えて食べられており、土佐、安房でも食べられていたようです。また、動物学者の黒川義太郎氏の「貂」ではないかという説を紹介しています。

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  相州大山に落ちる雷獣

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 足が六つに尾が四つ。

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 (『風祭 : 日本気象史料余話』田口竜雄 著古今書院 1941年)

『日本民俗学 〔第1-4〕 神事篇』(中山太郎 著大岡山書店 1930年)では鼬のようなものとして扱われていて矢鱈食われていることが書かれています。

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 (『博物図 鳥獣之部』田中芳男 編||久保弘道 校||服部雪斎 画玉井忠造等 1877年)

 雷獸は蚊帳を通り拔けることが出來ない。雷獸が人の頭とか、肩の上へ載るかも知れない。雷獸はまた人の臍を食べるのが好きだと云はれてゐる。だから雷鳴の時、用心して臍をよく蔽つて置かねばならぬ。また成るべく俯臥する方がよい。雷獸が捕獲されて、籠に入れられた話は、幾多もある。嘗て雷獸が井へ墜ちて、繩や釣瓶に縺れて、生捕になつたといふ話がある。(『小泉八雲全集 第3巻第一書房 』1926年)

 こうして見て行くと雷様が鳴るときに空から落ちて來る獸、という感じが少し変わってきませんか。鼬か、貂か、正体はよく解らないけれど、そんなに大きくない、ということが解ります。精々、犬くらいの大きさです。

 私はこの下宿の主人はどこか正体不明なところがあり、小柄なんだと読みます。だから自分を大きく見せたいのではないでしょうか。煙管をぽんぽんやるのはその証拠ですよね。ミミズクもそう大きくないですよね。この夫婦小柄なんじゃないでしょうか。

 この傍証は、

 敬太郎はこの意外の質問を受けて、しばらくは何という挨拶も口へ出なかったが、ようやく、「いったいどう云う訳なんです」と主人の顔を覗き込んだ。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 ここしか見つかりません。

 座高が同じなら「見据えた」相手が高ければ「仰ぎ見た」「ねめあげた」、低いからこそ「覗き込んだ」のではないかと考えられます。逆に相手がこれは書かれていないことですが、書いてあることから導かれるロジックです。

 こんなこと、が近代文学2.0です。













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