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三島由紀夫「舟橋聖一との対話」を読む

戦争が間に入っているということもたいした問題ではない


 戦後文学について語る中で三島は「戦争が間に入っているということもたいした問題ではない」と言い張る。これは『豊饒の海』を読み終わった時点では如何にも尤もな話だが、『鏡子の家』はのっぺりとした戦後を描いたわけだし、なによりも『金閣寺』には「戦争で焼けなかった金閣寺を焼く」というストーリーが必要であり、『仮面の告白』には戦争をアリバイにして童貞であることを隠すという設定が必要だったわけで、いわば戦後派かどうかは別にして、三島文学の出発点は戦争が間に入っていることこそが重要であった筈なので、どうも引っかかるところだ。

 これは三島が「戦争が済んだ」というような言い方をするところの感覚と同じで、戦争というのはあくまでも時期の問題であり他人事なのだという意識の表れなのであろう。

 この感覚が後に過剰なサバイバーズギルトへシフトしていくところがどうも捉えきれない。

自分で世界を作って行かねばならない

 
 三島は言う「われわれの時代には秩序が全然なくなってしまって、自分で世界を作ってゆかねばならない。世界を作るには、露骨な観念の形をした思想が基になって、そういう所から始めてゆかねばならない」。

 なるほど。『金閣寺』だ。自分にぶつけられる観念的という批評は殆ど意味を持ち得ないと言っているかのようだ。そこで私はふと、この対談が掲載された昭和二十四年三月時点では『花ざかりの森』や『盗賊』が書かれたのみで、三島由紀夫は東大法学部を出た大蔵官僚だったことを思いだす。『仮面の告白』はこの後に書かれるのだ。

 そしてまた東大法学部、という言葉が今更のように引っかかる。

 法学部?

谷崎さんの「卍」だけだと思うんです

 さして長くもない対談の中で、谷崎の話題は二回持ち上がる。

 一回目は昭和二十四年現在『細雪』が文壇では誰も認められていないということ。(!) 今では谷崎の代表作とも言われる『細雪』が? と思うが、この話題は舟橋のほうから持ち出され、三島に強く同意されている。女の化粧で始まり、下痢で終わるのが見事だと。

 二回目は三島のほうから「非常に抽象的な論理的な構成を持った小説も書きたいと思ってるんですよ」として谷崎の『卍』が持ち出される。

 ここには私は異論がある。芥川の『奇怪な再会』もそうだが、谷崎の『痴人の愛』もかなり論理的な構成を持っている。

 英語学習法に注目して読めば、これほどわかりやすい逆転劇もないものだ。たとえば『痴人の愛』に芸術的価値があるとすれば、それはまさに文法と自然の対決というところにあるんじゃないかな。受動態だとか仮定法だとか本来ないところに人間の存念で拵えた観念があるとすれば、それを自然の力が突き崩すところに面白みがあるわけだ。これを論理的構造と言わずして何と言おう。変態男のふらふらした回顧に見せかけて、こんな話を仕立てる谷崎は凄い。

 しかしまあそれはそれとして、『卍』の「非常に抽象的な論理的な構成」とはどのあたりの所を指しているのかと言えば、

 これか。

 これなど、独逸法に注目して調べないと普通の人には何のことかサッパリだろう。医師でもないものが専門の出版物ではないいかがわしい本を通じて堕胎に関する情報提供を行うことは、独逸刑法上では問題になり得ると考えても可笑しくない根拠が確かにあることはある。あるけれど法学部出身でもないかぎり、そんなことが一瞬でピンとくる筈がない。

 あ、法学部!

 しかし『花ざかりの森』の作者が法学部であることに気がつく人がいるだろうか。

 それはやはり『盗賊』以降の三島に現れるものである。しかし法学部出身であることそのものは三島の本質的な部分ではないような気がする。何故かというと、三島憲法や東大全共闘との討論、あるいはその他の様々な発言を通じて、いかにも法学部らしさがないからだ。三島自身が一番解り難いのが自分の行動だろうとも言っているが、例えば三島天皇論などは厳密に言えば楯の会のメンバーの誰一人理解できない非論理的なものであった。そもそも解らせようという気がないのだ。

 この法学部問題は別の機会に掘り下げたい。

デカダンスが感じられないんです

 これはちょっと前に死んだ太宰治に対する批判だ。太宰自らデカダンスを売りにしていたわけではなく、……いや、そういう一面がなくはないとして、織田作でも安吾でもなく太宰を持ち出すのは、当時安吾が芥川賞の審査委員をしていたからか。

私はデカダンスを前へも後へも逐一たどつた。

人類そのものがデカダンスの中にあるのであらうか?人類はいつもこんなであつたのか?-確實なことは、唯デカダンスの價値のみが人類に最上の價値として教へられたといふことだ。

-デカダンスの徵候としての道德そのものは一の新しいことである、認識の歷史に於ける第一位の無二の事件である。

この人を見よ ニーチエ 著||安倍能成 訳岩波書店 1928年


日本文学大辞典 1 藤村作 編新潮社 1935年

※「白」はベルギー

 デカダンス文学の定義は山ほどあり、三島の考えるデカダンスと太宰のデカダンスがことなることはやむを得ない。三島はデカダンスは原罪意識にはじまり、倫理観が必要で、太宰さんには倫理観がないので「デカダンスが感じられない」という。

 このデカダンス議論に関しては少々ブレがあり、三島は後に初期の谷崎がデカダンだと言い出す。

 谷崎こそ作品のうえでは倫理観がないだろうと思うが、どうなのだろう。

 ちなみに舟橋はまだ関係していない相手のわきの下に肘が触れるエロが解らないとデカダンが解らないという。なかなか面白い見立てだ。


[余談]

デカダンス文学の定義は山ほどあり、って嘘やろ、と思った方。


東洋文芸十六講 高須芳次郎 著新潮社 1926年

 竹林の七賢からデカダンスやゆうてはる人もおんのや。どないしたらええねんなこれ。

しかし新古今集はデカダンス文学です。

(「僕たちの実体」『決定版三島由紀夫全集 第三十九巻』新潮社 2004年)

 切りがない。



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