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三島由紀夫の『金閣寺』を読む④ 私は凡庸さというものが年齢を重ねても、少しも衰えぬのに改めて感心した。

たとい猫は死んでも  青空文庫では福沢諭吉、高村光太郎、寺田寅彦、夏目漱石、和辻哲郎、宮本百合子らが「たとい」を使っている。

お観水 観水活け 観水型

花々は、狼藉たるさまになった。  落花狼藉で女の腹を踏んだ溝口を思い出させる仕掛けか? と思う間もなく、柏木が落花狼藉を始める。女性に乱暴するのだ。

電車の反響がとよもし  どよもすが現代 響もす とよもすは万葉集だよ。折口信夫、上田敏、三好達治が使っているけど、雅語だよね。

雁行  ななめに並んで行くこと。

電力制限 電気需給調整規則の公布は昭和二十六年十月だが、それ以前にも電力制限はあったようだ。戦後の混乱期には休電日が月曜日、昭和二十五年から緊急停電が始まっている。そういえば二章に「電休日」という言葉が出ていた。

藤棚霞 鬼滅の刃の鬼が嫌いそう。

乳房は私の前にありながら、徐々にそれ自体の原理にとじこもった。薔薇が薔薇の原理にとじこもるように。(三島由紀夫『金閣寺』)

 観念的という言葉が否定的に用いられるとき、そこには「自分の頭の中だけで創り出したもの」「実体を欠くもの」といった意味合いが込められることがある。この三島の書きようはまさに観念的である。物の見え方としては自然ではない。物質が観念に化けている。この乳房はついに金閣寺に変貌する。その実質は重い豪奢な闇なのだそうである。しかし三島はこう書いて見せる。

 私は決して認識に酔うていたのではない。認識はむしろ踏み躙られ、侮蔑されていた。生や欲望は無論のこと! ……しかし深い恍惚感は私を去らず、しばらく痺れたように、私はその露な乳房と対坐していた。(三島由紀夫『金閣寺』)

 何が起こっていたかというと、柏木に暴力を振るわれた女を柏木に命じられるままに追いかけて慰めようとした溝口が、女の一人暮らしの住居に上がり込み、左の乳房を見せられたという話なのである。

━ 寺へかえるまで、なお私は恍惚の裡にあった。心には乳房と金閣とが、かわるがわる去来した。無力な幸福感が私を満たしていた。(三島由紀夫『金閣寺』)

 ここは三島が力を溜めて居るところである。此処から一気にまた観念の飛躍が起こる。

「又もや私は人生から隔てられた!」と独り言した。「又してもだ。金閣はどうして私を護ろうとする? 頼みもしないのに、どうして私を人生から隔てようとする? なるほど金閣は、私を堕地獄から救っているのかもしれない。そうすることによって金閣は私を、地獄に堕ちた人間よりもっと悪い者、『誰よりも地獄の消息に通じた男』にしてくれたのだ」(三島由紀夫『金閣寺』)

 はい、解らない。これは第六章。
 敗戦後、空襲に焼かれなかった金閣に対して、溝口は『金閣と私との関係は絶たれたんだ』と考えている。美がそこにあり、自分はこちらにいると。そうして金閣の永遠が目覚めた敗戦に溝口は絶望している。そして「南泉斬猫」の講話があり、女の腹を踏み、そのことが露見し、大谷大学に入り、柏木と知り合いになり、柏木のナンパ術を見せつけられた。
 その後金閣を見て溝口は、和んでいるのである。「私の心は和み、ようようのこと恐怖は衰えた」と書かれている。これが第五章。

 私にとっての美というものは、こういうものでなければならなかった。それは人生から私を遮断し、人生から私を護っていた。
『私の人生が柏木のようなものだったら、どうかお護り下さい。私にはとても耐えきれそうもないから』
 と私は殆ど祈った。(三島由紀夫『金閣寺』)

 いや、普通に「どうかお護り下さい」って祈っているんだから、「金閣はどうして私を護ろうとする? 頼みもしないのに、どうして私を人生から隔てようとする?」というのはとんだ言いがかりなのだが、むしろ問題はそこではない。おそらく金閣は何もしていない。ただそこにあるだけで、乳房を金閣にしたのは溝口なのである。さらに「地獄に堕ちた人間よりもっと悪い者、『誰よりも地獄の消息に通じた男』」という理屈が解らない。禅宗の坊主が柏木のように女にだらしないのは確かに堕落として、桃色の餅菓子のような道詮和尚は肉体を捨離して、肉を軽蔑するために女遊びをし尽くした人だ。溝口も変な妄想などしている暇があったら、お乳くらい揉んでも良かったのではなかろうか。それを勝手に金閣寺の所為にして文句を言っている。地獄に落ちていない、ただ人生から隔てられた→おっぱいを触れない→童貞男が『誰よりも地獄の消息に通じた男』? いや、それではまるで金閣寺は天皇ではなくて、『仮面の告白』における近江じゃないか。腋毛ぼうぼうの。

 それでいて溝口はついにこの第六章の終わりで金閣寺に対する態度を大きく変化させる。

 ほとんど呪詛に近い調子で、私は金閣にむかって、生まれてはじめて次のように荒々しく呼びかけた。
「いつかきっとお前を支配してやる。二度と私の邪魔をしに来ないように、いつかは必ずお前をわがものにしてやるぞ」
 声はうつろに深夜の鏡湖池に谺した。(三島由紀夫『金閣寺』)

 うん。言いがかりだな。ここで「邪魔しないように」ではなく「邪魔をしに来ないように」と書いて見せるところが三島のはったりである。三島由紀夫という人も「ないことないこと」を滔々と語る名人なので、ここで書かれていることは全て「ないことないこと」、つまり三島の記憶にはなく、その場で創り出された嘘である。嘘がどんどん積み重ねられていくので、三島の記憶の中には「敗戦後、空襲に焼かれなかった金閣」「金閣と私との関係は絶たれたんだ」「美がそこにあり、私はこちらにいる」「金閣の永遠が目覚めた敗戦に溝口は絶望」「南泉斬猫」「女の腹を踏む」「露見」「大谷大学」「柏木のナンパ術」「金閣を見て和む」と事象と観念が積み上げられているので、ここで溝口が「金閣はどうして私を護ろうとする? 頼みもしないのに、どうして私を人生から隔てようとする? 」などと考えることの一般的な意味での矛盾、非論理的な態度は三島自身が一番よく解っている。三島は矛盾し、非論理的な、溝口の精神の移ろいを書いている。しかしそれが解るかどうかと訊かれれば、ごく普通に私には解らない。ここで「解るー、それよく解るー」と解ってしまうのは、「南泉斬猫」を「解るー、それよく解るー、私も良く猫を斬るもん」と言える人くらいなものだろう。

 つまり酒鬼薔薇君くらいにならないと『金閣寺』は解らない?

 小説の筋立てとして金閣寺が焼かれることは決定事項なので、後は「どのような考えからそのようなことをしたか」というところをいかにリアルに描くかというところに『金閣寺』という小説の肝はある。一応金閣寺を支配したい、と溝口に思わせることで準備は整った。ただその心理に至る理由が「二度と私の邪魔をしに来ないように」であり、そもそも金閣が勝手に邪魔をしたわけですらないので、溝口の理屈には筋が通っていない。三島にしてみれば、鱧の骨切りのように何度も繰り返した観念の空中戦で読者の論理的思考を筋切りしておいたから、ここは何とか切り抜けられると考えたかもしれないが、そんなわけにはいかない。そもそも金閣寺は何もしていない。溝口は金閣寺に護ってくれと祈っていた。それがなんだ、女の片乳を揉めなかったくらいで逆切れした童貞に金閣寺が焼かれなくてはならないのか。

 きちんと整理しておきたい。

 要するに自分の中の美、『金閣寺』をわがものとして支配するほかに、心理的な枷としての『金閣寺』を捨離するために軽蔑できるほど遊び倒すという方向性も考え得る。例えばVHSのビデオデッキのカセット取り出し口に納豆を入れるとかなり取り返しがつかないことになる。そういうことを金閣寺にするというやり方もないではない。しかしとにもかくにも三島は「二度と私の邪魔をしに来ないように」溝口に金閣寺をわがものにさせることを選んだ。ここにミスは認めないとして理屈が足りていないことは三島にも解っていたようだ。

 だから第七章の冒頭では突然「暗号」やら「相似にみちびかれて」やら「運命」やらと言い訳が始まる。そんなことを言ってしまえばなんでも運命である。

微行 おしのび

瓔珞

執著 しゅう‐じゃく

接心 瞑想する祈りの修行。

光クラブ

弱日 よろび 『春の雪』でも使っているが、青空文庫にもリサーチナビにも引っかからない。

轗軻 世間に認められないこと。志を得ないこと。

截然 ① 区別のはっきりとしているさま。 ② きりたっているさま。

私は死者をしか人間として愛することができないのかと疑われた。

私は凡庸さというものが年齢を重ねても、少しも衰えぬのに改めて感心した。

 村上春樹か( ゚Д゚)

禿頭 とくとう

根附

米飯の代わりに海藻で作ったらしい緑いろの麺類を詰めた弁当

碇泊 ていはく

荏苒 じんぜん  なすこともなく、段々に月日がたつさま。物事がはかどらず、のびのびになるさま。鴎外、漱石、芥川、永井荷風、太宰、安吾も使っていた。

天然記念物の大みずなぎ鳥

 イカとか食べるんだ。

石の多い荒蕪 …土地が荒れて雑草などのおい茂ること。また、その土地。未開墾地。

 裏日本の海を見て、溝口はついに『金閣寺を焼かねばならぬ』という想念に至る。第七章の結びである。何ものにも脅かされていないところから生まれた想念である。荒涼とした自然が自分の心に媚び、親密なものとなり、自足したところで生まれた想念である。「いつかきっとお前を支配してやる。二度と私の邪魔をしに来ないように、いつかは必ずお前をわがものにしてやるぞ」からの『金閣寺を焼かねばならぬ』へのねじれは、やはり今一つ理由を欠いている。だがまだ三章ある。



【余談】三島由紀夫はアプレゲール派?

すなわち、椎名麟三、船山馨、野間宏、中村眞一郎、三島由紀夫ら一連のアプレ·ゲール派といわれる人たちがそれである。

「戦後派」としては埴谷雄高が抜けている感じがする。三島は第二次戦後派に入る。

追憶は「現在」のもつとも清純な證なのだ、と「花さかりの森」(文藝文化九月號)の中で三島由紀夫といふ年少の作家は書いてゐる。

蓮田善明の評である。

三島由紀夫は東大法律科を卒業。趣味は観劇、宗派は禅宗らしい。大蔵省銀行局国民貯蓄課事務官だったそうだ。


勉強になるなあ。


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