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芥川龍之介の『老いたる素戔嗚尊』が解らない④兼『神々の微笑』が解らない①あれとこれとがこうなって

 芥川龍之介は皮肉の人、逆説の人である。従ってその作品を読んだというからには皮肉・逆説が一つ見つかっていなくてはならない。つまり『一夕話』であれば、それが一晩限りのことではないというところが見えていなくてはならず、『一人の無名作家』であれば無名作家が二人いることが解っていないといけない。

 そういう意味では『老いたる素戔嗚尊』は案外老いていない素戔嗚尊の話でもあり、祝ぐといいながら娘に子は出来ない話であり、それだけで十分ではないかと納得しようとして、正直が邪魔をする。

 ここにはもっと大きな仕掛けはないだろうか。

 素戔嗚は天の鹿児弓に、しづしづと天の羽羽矢を番へた。弓は見る見る引き絞られ、鏃は目の下の独木舟に向つた。が、矢は一文字に保たれた儘、容易に弦を離れなかつた。

(芥川龍之介『老いたる素戔嗚尊』)

 昨日は芥川が記紀の表記を意図的に折中していると書いた。

 たまたまそうなったのではなく、折中は意図したものであろう。いかに天才芥川とは言え、流石に記紀の表記を取り違えずにすべて正確に記憶しているものではあるまいから、たまたまそうなることもあるのではないかと考えられなくもないが、実際それぞれの表記は読むことはできても何も見ないで書くことは難しいのだから、いちいちわざと折中したと考えるべきだろう。

書紀には、天の鹿兒弓、天の羽々矢とある、その一書に、天の鹿兒弓、天の眞鹿兒矢とある。古事記の下の卷の雉を射る段には、天の波士弓、天の加久矢とある。又天の波士弓、天の眞鹿兒矢ともある。


国民文学読本稿 上古編
東京府立第五中学校研究会 編東京府立第五中学校紫友会 1923年

 確かに昔の子どもは記紀の表記も教わった。書いて書けなくはないだろう。そこに書かれている事どもは引き比べてこそ厄介な、如何にも混乱しそうな文字面なのだ。これは正しく書こうとしても、折中しようとしても、記紀を手元に置いていちいち確認しながらではないと書けない作品なのではなかろうか。さらに言えば、どちらか一つに寄り添うよりも折中する方が難易度が高い。私にはその感覚はないが、記紀に詳しい人にこそ「ややこしい書き方しよんな」という印象が強いのではなかろうか。そのややこしさで芥川が描き出したものは、大日孁貴と同列の素戔嗚尊である。

 そうしてみると天照大御神を皇祖とする明治天皇制の系譜に対して、素戔嗚尊を大日孁貴(天照大御神)と争ったもう一つの勢力として描くことそのものに芥川の意図があったとは言えないだろうか。芥川は「争った」と書いているが、この二人の関係性はそう単純なものではない。芥川はそうしたことを全て承知のうえで、「争った」と書いたのではなかろうか。

 なにしろ芥川にとっては天照大御神も大日孁貴でしかなく、八百万の神と同列であり、裸踊り子と優劣があるわけではないのだから。

「仏陀の運命も同様です。が、こんな事を一々御話しするのは、御退屈を増すだけかも知れません。ただ気をつけて頂きたいのは、本地垂跡の教の事です。あの教はこの国の土人に、大日孁貴(おおひるめむち)は大日如来と同じものだと思わせました。これは大日孁貴の勝でしょうか? それとも大日如来の勝でしょうか? 仮りに現在この国の土人に、大日孁貴は知らないにしても、大日如来は知っているものが、大勢あるとして御覧なさい。それでも彼等の夢に見える、大日如来の姿の中には、印度仏の面影よりも、大日孁貴が窺れはしないでしょうか? 私は親鸞や日蓮と一しょに、沙羅双樹の花の陰も歩いています。彼等が随喜渇仰した仏は、円光のある黒人ではありません。優しい威厳に充ち満ちた上宮太子などの兄弟です。――が、そんな事を長々と御話しするのは、御約束の通りやめにしましょう。つまり私が申上げたいのは、泥烏須(デウス)のようにこの国に来ても、勝つものはないと云う事なのです。」

(芥川龍之介『神々の微笑』)

 芥川の切支丹ものを一つ一つ読み解きながら、この『神々の微笑』を飛ばしたのは、「ややこしいから後回しにしよう」と思って後回しにしていたらすっかりそのことを忘れていたからである。しかしこの部分だけ切り取ってみると日本における宗教の根本は本地垂跡の教であり、神仏習合なのだと言い切っているように思われる。

 この考え方の前では天照大御神もデウスもDJSODAも八百万の神の一つである。

 何を下品なと思うが、

 桶の上にのった女は、いつまでも踊をやめなかった。彼女の髪を巻いた蔓つるは、ひらひらと空に翻った。彼女の頸に垂れた玉は、何度も霰のように響き合った。彼女の手にとった小笹の枝は、縦横に風を打ちまわった。しかもその露わにした胸! 赤い篝火の光の中に、艶々と浮び出た二つの乳房は、ほとんどオルガンティノの眼には、情欲そのものとしか思われなかった。彼は泥烏須を念じながら、一心に顔をそむけようとした。が、やはり彼の体は、どう云う神秘な呪いの力か、身動きさえ楽には出来なかった。

(芥川龍之介『神々の微笑』)

 オルガンティノの前には天岩戸の前でアメノウズメ(天宇受賣命、天鈿女命)が躍る場面が幻出されている。アメノウズメも神の一人である。(一柱?)

 このアマノウズメが裸踊りをしなければ世界は暗闇のままであったという神話を担ぐ明治政府により、日本の近代化は推し進められた。日本という国はそういう国なのだ。この『神々の微笑』において芥川が神仏分離、廃仏毀釈という明治政府の愚行を批判していることが確かならば、そもそも記紀の表記と筋を折中して素戔嗚尊の話を書くことそのものが神話のいい加減さに対する皮肉であると言って言えななくもなかろう。

 だが、それにしては『老いたる素戔嗚尊』では素戔嗚が微笑するのに対して、『神々の微笑』では謎の一人の老人、この国の霊の一人が微笑するだけで神々が微笑する場面がないのだ。

 どうも芥川に薄ら笑いされている感じが否めない。

 まだまだ『老いたる素戔嗚尊』を読んだとは言えない。



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