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岩波書店『定本漱石全集』注解を校正する123 夏目漱石『こころ』をどう読むか500 結婚はいつですか?


結婚はいつですか

 奥さんのいうところを綜合して考えてみると、Kはこの最後の打撃を、最も落ち付いた驚きをもって迎えたらしいのです。Kはお嬢さんと私との間に結ばれた新しい関係について、最初はそうですかとただ一口いっただけだったそうです。しかし奥さんが、「あなたも喜んで下さい」と述べた時、彼ははじめて奥さんの顔を見て微笑を洩らしながら、「おめでとうございます」といったまま席を立ったそうです。そうして茶の間の障子を開ける前に、また奥さんを振り返って、「結婚はいつですか」と聞いたそうです。それから「何かお祝いを上げたいが、私は金がないから上げる事ができません」といったそうです。奥さんの前に坐っていた私は、その話を聞いて胸が塞がるような苦しさを覚えました。

(夏目漱石『こころ』)

 岩波の注のないところで、本筋とはあまり関係がないかもしれないが、案外重要であるかもしれない点、しかもこれまで殆ど書いてこなかったことを書いてみる。

 例えばここ「結婚はいつですか」というKの問いに奥さんが何と答えたのか。これは書かれていないので推測するよりない。

 しかし、

・Kが続けて「何かお祝いを上げたいが、私は金がないから上げる事ができません」と云っていること
・先生と奥さんの間では「上げてもいいが、あんまり急じゃありませんか」「急に貰いたいのだ」という会話があったこと
・「親類に相談する必要もない、後から断ればそれで沢山だ」と奥さんが言っていること

 などなどの条件から考えて、「日取りはまだ決めていませんがなるたけ早い方がいいでしょう」とでも奥さんが答えたのではないかと考えられる。

 日程が卒業後の事であれば、Kはなにがしかの金を用意できる可能性が高い。先生の「急に貰いたい」という意思を尊重し、親戚には後で断るとなると、式は簡素なもので学生結婚という選択肢もあり得たであろう。

 するとKは何を思ったか。

 先生の部屋は「宅中で一番好い室」である。新婚なら当然お嬢さんと先生がその部屋で寝ることになる。続きの間にKがいることはさすがに不自然だ。そう考えると「結婚はいつですか」という問題は生々しくKを追い詰めることになる。

 ここはむしろ明確に書かれていないことこそが肝腎なことである証なのではなかろうか。

※奥さんの段取りとしても、先生が大学を卒業し、いきなり下宿を出て地方にでも就職して行かれてしまったらそこで縁が切れてしまいかねないことから、先生の申し出は好都合なもので、結婚を先に延ばす理由は見当たらない。真砂町事件の際、

 その時私の足音を聞いて出て来たのは、奥さんでした。奥さんは黙って室の真中に立っている私を見て、気の毒そうに外套を脱がせてくれたり、日本服を着せてくれたりしました。それから私が寒いというのを聞いて、すぐ次の間まからKの火鉢を持って来てくれました。

(夏目漱石『こころ』)

 先生を下着にしたことから見ても、奥さんは確かに先生と気心が知れたつもりでいたのだろう。外套は脱がしても下着姿にする大家さんなんていないだろう。いたらいたで大変だ。


私はそんな女といっしょになるのは厭なのです

 はたしてお嬢さんが私よりもKに心を傾けているならば、この恋は口へいい出す価値のないものと私は決心していたのです。恥を掻かせられるのが辛いなどというのとは少し訳が違います。こっちでいくら思っても、向うが内心他の人に愛の眼を注そそいでいるならば、私はそんな女といっしょになるのは厭なのです。世の中では否応うなしに自分の好いた女を嫁に貰って嬉しがっている人もありますが、それは私たちよりよっぽど世間ずれのした男か、さもなければ愛の心理がよく呑み込めない鈍物のする事と、当時の私は考えていたのです。一度貰ってしまえばどうかこうか落ち付くものだぐらいの哲理では、承知する事ができないくらい私は熱していました。つまり私は極めて高尚な愛の理論家だったのです。同時にもっとも迂遠な愛の実際家だったのです。

(夏目漱石『こころ』)

 先生の結婚が財産の為、金の為だという理窟が永遠に呑み込めない人がいるかもしれない。しかし先生は愛に関してKと争う気はさらさらないことを「私はそんな女といっしょになるのは厭なのです」と念押ししている。

 ここは設定そのものは『彼岸過迄』の須永市蔵の田口千代子と高木の関係のようなものをやや薄めた感じ、そもそも嫉妬すること自体があり得ないという程度のものだが、よくよく眺めてみるとむしろ「自分の好いた女を嫁に貰って嬉しがっている人」を馬鹿にしている感じが強くある。

 これはとりもなおさず大塚楠緒子の婿になった大塚保治を揶揄っているのだろう。本当は大塚楠緒子の気持ちは俺の方にあるんだという漱石の意地みたいなものが現れているところではなかろうか。

 こう読んでしまうと高尚な話でも何でもなくなるが、須永市蔵のように文鎮を振り回さないだけ立派である。


Kの態度は少しも最初と変りませんでした

 客も誰も来ないのに、内々の小人数だけで取ろうという歌留多ですからすこぶる静かなものでした。その上こういう遊技をやり付けないKは、まるで懐手をしている人と同様でした。私はKに一体百人一首の歌を知っているのかと尋ねました。Kはよく知らないと答えました。私の言葉を聞いたお嬢さんは、大方Kを軽蔑するとでも取ったのでしょう。それから眼に立つようにKの加勢をし出しました。しまいには二人がほとんど組になって私に当るという有様になって来ました。私は相手次第では喧嘩を始めたかも知れなかったのです。幸いにKの態度は少しも最初と変りませんでした。彼のどこにも得意らしい様子を認めなかった私は、無事にその場を切り上げる事ができました。

(夏目漱石『こころ』)

 真砂町事件の後の歌留多事件、この直後Kは先生に対して露骨に自分が御嬢さんを意識していることをアピールするようになる。Kの態度は死ぬまで変わらない。「彼のどこにも得意らしい様子を認めなかった」と先生は書いているが、Kはそもそもそういう男なので、内心で凱歌を奏していないとも限らないのに先生はそこを疑わない。

 当たり前のことながら小説と云うものは「話者以外の心の動きは解らない」ものだ。先生は奥さんの計略やお嬢さんの本心を疑いながら、案外Kを疑っていなかった。

 養子に行って姓が変わったことも教えてもらえなかったのに、先生の方ではKのことを「小供の時からの仲好」の友達だと信じていた。もしも先生の御嬢さんへの気持ちを知りながらKが先生を出し抜いたとするなら、先生が少し可哀そうに思えてくる。



[余談]

 三四郎も代助も健三も先生も『坊っちゃん』の「おれ」も白井道也も気が付かないというボケ役を引き受けている。しかしボケ役とは云うものの、誰もが何もかもわかる筈はなく、他人の考えていることは基本的に解らない。従って静策士説はいつまでも単なる可能性に留まる。そうなのかもしれないけれども確かめようがない。
 その一方で、ぎりぎり「こうなのではないか」と心が読めるように書かれているところは拾わなくてはならない。
 例えば「私」は直感で、懐かしみから先生に近づく。心の中にはなにもない。言わば無意識である。それを先生は最初通過儀礼的同性愛と誤解してしまう。懐かしみと書いてあるのに「同性愛だ」と言い張るのはさすがに幼稚だ。

 読書に本当に必要なことは書いてあることを読むことだ。


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