丹波の国は笹山から
この「丹波の国は笹山から」に岩波書店『定本 漱石全集第一巻』注解は、そのまま丹波篠山の説明をしてしまう。これは物言いから芝居か講談に由来があると見てよいだろう。調べたいが国立国会図書館デジタルライブラリーの調子が良くないので後回しとする。
デカンショ節の「丹波篠山山家の猿が」とか「文武きたえし美少年」あたりとはゆるく意味のつながりがあるように思える。
※後藤又兵衛のイメージではなかろうか?
せつな糞
この「せつな糞」という言葉は、広辞苑、大辞林、大辞泉、新辞林、日本国語大辞典、学研国語辞典、新明解、等主要国語辞書に「茶羅鉾」の項目なし。
どうやら別の本では誰かが注を付けているようだ。
しかしどうも「せつない」感じでは使われていない。仮に徳川家康が漏らしたのが「せつな糞」ならば「恐怖のあまり糞をもらした」と言われるのは何故なのだろうか。
確かに「せつなさのあまり脱糞すること」と書いてある。しかし「せつなさのあまり脱糞すること」などあるのだろうか。例えば失恋した。切ない。脱糞した?
切なく威張ることはできない。せつなさは興奮の対極にある。
この「せつな小便」に関しては既に蝉に関する考察として、
せつなさのあまり糞をする人の研究でも博士論文の価値はある。そして「せつな糞」の研究でも。「やちま糞」でも。
仮鼻を挫いた
この言葉「仮鼻を挫いた」がほかに目にする機会のない筈の言葉ながらなんとなく意味が通じてしまうのは、「出鼻をくじく」「鼻をへし折る」という言葉があるからだろう。つまり「鼻が挫かれる」という言葉で、プライドが傷つけられるという意味が解ってしまう。
しかし「仮鼻を挫いた」という慣用句はない。「仮鼻」にしても、
という用例が見つかるのみだ。むしろ「鼻を装う」自体が解らない。
この「仮鼻」れはペルソナで、「鼻」は、
夢野久作の言うところの「この鼻を見忘れたか」に意味が近いであろうか。
話としては「仮鼻を挫いた」のすぐ後に、
こうして鼻の頭を鼠に齧られる下りがあるので、比喩とエピソードが韻を踏んでいる仕掛けだとは解る。なんにしても、何か説明が欲しいところだ。
何でも蚊でも
この「何でも蚊でも」に関して広辞苑、大辞林、大辞泉、新辞林、日本国語大辞典、学研国語辞典、新明解、等主要国語辞書に「茶羅鉾」の項目なし。これは、
……とあり、
どちらが古いか解らない。ただ江戸中期の戯作者・蓬萊山人帰橋に、
……とあり、「なんでもかでも」はかなり古い言葉であることが分かる。これも今では使われなくなった表記なので説明が欲しいところだ。
理野陶然
断片に「○××に駄洒落るなら、鞋はいて駄洒落犬の病氣○立町老梅、理野陶然原○○坊主は髪を長くして居る。」とある。
妥当な解釈だが、米山保三郎の死因は一説に腸チフスとされる。
なお、天道公平に関しては、
と、まだ元気でいる設定になっているので子規の単独モデル説はどうしたものか。単独モデル説はそもそも遠慮したいが、あえて言えばこの食い意地のきたない男の要素の何割かは夏目漱石自身であろう。
[余談]
国立国会図書館デジタルコレクションが動かなくて、一向に要領を得ない。いや逆に、ちゃんと動けばこれほど便利なものはない。
このサイトと国立国会図書館デジタルコレクションさえあれば、ある程度のことは自力で調べられる。早く治ってほしいものだ。