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肉のなかに 夏目漱石の『こころ』をどう読むか479


夏目漱石

 自己の心を捕へんと欲する人々に、人間の心を捕へ得たる此作物を奨む。

『心』広告文

  自己の心を捕へんと欲する人々に、人間の心を捕へ得たる此作物を奨む。改めて思えば広告文にはこう書かれていた。それにもかかわらず近代文学1.0の人々は吾賢げに「ディスコミュニケーションの物語だ」と言ってみる。あるいは何故先生は自分がKや奥さんからどう思われているのか考えないのかと不思議がる。
 しかし問われているのは二人の語り手による自分の心のありようなのだ。他人の心は永遠に解らない。しかし自分の心はどうなのか。自己の心を捕えんとすれば、こういうやり方が可能ではないかという壮大な物語が『心』なのだ。

 最初の語り手が覗き込んだ自分の心は時代を経て変化する。先生と接していた当時と、何やら書いているらしい現在との間で変化する。

 前者は時には「私は一応自分の胸の中を調べて見た。けれどもそこは案外に空虚であった。思いあたるようなものは何にもなかった」と無意識的であり、時には「そうして漲る心臓の血潮の奥に、活動活動と打ちつづける鼓動を聞いた。不思議にもその鼓動の音が、ある微妙な意識状態から、先生の力で強められているように感じた」とか「肉のなかに先生の力が喰い込んでいるといっても、血のなかに先生の命が流れているといっても、その時の私には少しも誇張でないように思われた」とむやみに情熱的である。

 しかし先生の遺書を経た現在においては何やら理屈を持っている。

 私は最初から先生には近づきがたい不思議があるように思っていた。それでいて、どうしても近づかなければいられないという感じが、どこかに強く働いた。こういう感じを先生に対してもっていたものは、多くの人のうちであるいは私だけかも知れない。しかしその私だけにはこの直感が後になって事実の上に証拠立てられたのだから、私は若々しいといわれても、馬鹿ばかげていると笑われても、それを見越した自分の直覚をとにかく頼もしくまた嬉しく思っている。

(夏目漱石『心』)

 当時は直感や感じであったものが、「事実の上に証拠立てられた」とされている。当時は解らなかった自分の心が解った。この最初の語り手の心のありようを単なる「ゲイ」「ホモセクシャル」で片づけている者は単なる阿呆である。私だけに明らかになった事実、それが先生の遺書であったとすれば、そこには「ゲイ」「ホモセクシャル」がなくてはならない。しかしそんなものはない。鎌倉の海水浴でも散歩のときでも先生の気持ちにはそういうものが一切なかったのだ。しかし「肉のなかに先生の力が喰い込んでいるといっても、血のなかに先生の命が流れているといっても、その時の私には少しも誇張でないように思われた」という感じを裏付ける明示的な理屈は見られない。

 私はこれまで冒頭のすがすがしさの為には先生の罪が許されていなければならず、先生の罪を許すことができるのはK一人であることから、「私」は生年の合わないKの生まれ変わりであり、だからこのように仄めかされているのだと考えてきた。

 私は最後に先生に向かって、どこかで先生を見たように思うけれども、どうしても思い出せないといった。若い私はその時暗に相手も私と同じような感じを持っていはしまいかと疑った。そうして腹の中で先生の返事を予期してかかった。ところが先生はしばらく沈吟したあとで、「どうも君の顔には見覚えがありませんね。人違いじゃないですか」といったので私は変に一種の失望を感じた。

(夏目漱石『心』)

 年齢が合わない問題はここに書いた通り。

 しかしさて、もう一度この「肉のなかに先生の力が喰い込んでいるといっても、血のなかに先生の命が流れているといっても、その時の私には少しも誇張でないように思われた」という感じについて考えていくと、むしろKの許しを前提にしたKの生まれ変わり説が揺らいでくる。

 つまり『こころ』に現れる二人の「私」には同じ血が流れているとしたら、最初の話者「私」は先生の生きたままの生れ変りなのだと考えられないだろうか。

 つまり最初の話者「私」は先生の遺書によって自分の心のありようを理解するのである。

 繰り返すが此の説ではKの許しは得られないので先生の罪は消えない。しかし「肉のなかに先生の力が喰い込んでいるといっても、血のなかに先生の命が流れているといっても、その時の私には少しも誇張でないように思われた」というところにフォーカスすると理屈が合う。

 このような考え方、つまり角度を変えると別の話になるという仕掛けは『三四郎』において既にみられた。

 この『三四郎』は三四郎と美禰子の恋愛小説のようにも見えるが、よく読むと美禰子が野々宮にふられる話のようにも見える。三四郎が美禰子にふられる話のようで、美禰子が三四郎をあきらめる話のようでもある。『こころ』の話者、「私」は角度によってはKの生きたままの生まれ変わりのようでもあるが、先生の生きたままの生まれ変わりでもあり得る。ならば「私」が静に子供を産ませたとして少しもえげつさのないハッピーエピローグでしかない。

 そんなことを芥川の『影』を読んでいて気がついた。本を読むという行為は本当に面白い。誰も知らないだろうけど。

 そして一日たって思う。本当にみんな本を読むという行為の面白さには辿り着いていないな。どうせみんな死んでしまうのに。ヒグマに襲われなくても。なのに夏目漱石を読もうとしないなんて、なんて馬鹿げた人生だ。


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