芥川龍之介の『老いたる素戔嗚尊』が解らない② 何故無人島なのか?
クシナダヒメの死後、ここからが素戔嗚尊の「老いたる」時間なのだろう。芥川はここで『古事記』に新解釈を加えて「根堅洲国(ねのがたすくに。普通はねのかたすくに)」を「四面海の無人島」にしてしまう。しかも須賀からは遠いので、島根県沖、隠岐の島のようなところを想定したのかと思われる。『古事記』ではここが「妣國(ハハクニ)」とも呼ばれることからなにやら朝鮮半島を匂わせるところがなくもないが、また黄泉の国である黄泉平坂とも言われるところから地下をイメージさせる訳の分からない場所だ。
これを隠岐の島のような無人島にしたところで、最後は素戔嗚尊が島に置き去りにされてしまうので、「隠岐の島」じゃなくて「遺棄の島」じゃないかという駄洒落が成立する訳でもない。
いや、するのか?
なんにせよ、隠岐の島といえばこの後因幡の白兎が鰐の上をぴょんぴょん跳んで来る出身地なので、そこに素戔嗚尊がいては具合が悪い。しかしどうも須賀からの位置的にズバリ隠岐の島ではないにせよ、「四面海の無人島」を置くとするとその辺りに持ってこざるを得ず、かなり喧しい感じがする。
勿論この話に因幡の白兎は出てこない。根堅洲国は「国」なのに何で島にしたかなと引っかかると、元々は隠岐国なので妙な具合につじつまが合う。
そして無人島すなわち遺棄の島と考えてみた時、ふと深沢七郎の『楢山節考』が思い出され、やはりこれは老いたるスサノオが黄泉の国に捨てられる話なのかという最初のアイデアに戻る。
すると葦原醜男が須世理姫を黄泉の国から連れ帰るという、これまたどこかで聞いたような話が出来上がる。そもそも根堅洲国=黄泉の国という設定がややこしいのだが、芥川は『古事記』の「書かれていない部分」に敢てややこしい話を加えている。『古事記』という最もこすられ続けたお話を芥川がもう一度こする意図は、ややこしさを増やすためなのか。
改めてタイトルの意味に沿ってお話を捉えなおすと、体力的にはさして老いていない素戔嗚の「涙」に老いを見つけるところで納得するしかないのだろう。
しかしまだ何か隠れているようでまったく釈然としない。
[余談]
本を読むということは基本的に極めて高い知性を要求するようなものではなく、ある程度の知性とコツと誠意、そして正直さがあれば十分だというのが私の持論だ。なかでも変に認知を曲げない正直さというものが一番肝心で、自分で自分を誤魔化さなければ、そんなに頓珍漢なことにはならないのではないかと思っている。
しかしこのところ盛んに目にするAudibleというものによって、読書という行為の意味が根本的に変わっている印象がある。そこには正直さだけがあり、コツや知性と云うものが全くなくても成立してしまうような感じがある。飽くまで感じである。何故なら彼らの言葉は音楽の感想のように感じで語られているからだ。
例えばそういう聞き流すような読み方でなら『老いたる素戔嗚尊』からある感じを得られないわけではない。
しかし捉えきれている感じはしない。
何か見落としている感じが消えない。
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