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話者が手紙を読むとはどういうことか

 昨日は筋の話として物語の構造の話をしました。『彼岸過迄』『行人』『こころ』がともに主人公が手紙を読むという構造を持っていて、この構造を無視すると筋が解らなくなるという話でした。

 改めて『こころ』で説明しますと、「私」はKの生まれ変わりのように仄めかされていて懐かしみから先生に近づきます。その直感は後に先生の遺書によって事実の上に証拠立てられます。「私」は先生の遺書を読むことで先生を「人間を愛しうる人、愛すべき人」として全肯定します。ですからあのすがすがしい冒頭があるわけで、Kの許しがなくては先生の罪は消えないのですから、先生の遺書は単に読者が読めばいいというものではなく、必ず「私」が読みあれこれ考えねばならないものです。

 しかしどうですかね、これまでの「現代文B」の授業や試験では、「Kから覚悟ならないこともないと言われた時、先生はどう感じたでしょうか?」という問いはあっても、「Kから覚悟ならないこともないと言われた時、先生はどう感じたと話者は感じたでしょうか?」というような捉え方自体がされてこなかったのではないでしょうか。

 漱石論者の中でも『行人』の主人公は一郎だと思い込んでいる江藤淳や柄谷行人らには、「二郎がHさんの手紙を読んでいる」という物語の構造が見えていないので、『行人』の中にHさんの手紙を読み終わった以降の二郎の言葉があることに気が付きません。よく読むと確かにあるのです。『こころ』の場合、先生の遺書の後に冒頭があることは誰でもわかると思います。しかし『行人』の場合はいかにもさりげないので殆どの人はHさんの手紙を読み終わった以降の二郎の言葉に気が付きません。それでは本当に『行人』を読んだとは言えないでしょう。

 昨日は、「『彼岸過迄』は賺していて、『行人』は暈しすぎ、『こころ』においてギリギリ何とか形になったと私は見ています」と書きました。『彼岸過迄』は賺しというのは、結びの前に須永の手紙を読む松本の話を聞く田川敬太郎といった複雑な構造が現れるからです。須永の手紙から須永の心情を読み取る松本の心情を読み取る田川敬太郎の心情を考えながら読まなければなりませんので複雑です。しかもそんな複雑な構造に対して結びでは田川敬太郎を門外漢にしてしまうから賺しだというのです。これが『行人』の場合、確かにHさんの手紙を通して一郎の心情を慮る二郎が存在するのですが、あまりにもさりげないので暈しすぎというのです。結果として殆どの人は二郎の意識を消してしまいます。『こころ』は作品としては何とか形になったはずだと私は思うのですが、あのすがすがしい冒頭の意味に気が付いている人もごく僅かなので、ギリギリという感じがします。
 
 そもそも自分以外の誰かのフレームで手紙を読むことが難しいのでしょうか。いや、そんなことはないでしょう。『あしながおじさん』を読めば、ジルーシャ・アボットという見ず知らずの少女の手紙を関係者のフレームで読むことになる筈です。何らかの形で、現実の自分とは別の意識を拵え、物語に参与している筈です。私はそれをごく当たり前のことだと思って来ましたが、そうは思わない人たちによって『こころ』から冒頭の「私」の存在を消した現代文B的『こころ』というものが切り取られ、教材にされてきたわけです。従って『こころ』は救いのない罪の話にされてしまっています。

 江藤淳や柄谷行人のように『行人』は「塵労」で分裂していると見做す人たちは、やはり二郎の物語としての『行人』を捉えきれていません。やはり「Hさんの手紙を読んで二郎はなんと思いましたか?」とも問わないのでしょう。

 漱石はみなまで語らない主義でした。話者が手紙を読むということは、話者ではなく、手紙を読む話者の顔を読者に想像させるというレトリックです。ニコニコなのかプンスカなのか、話者の顔が思い浮かばなければ、それは『行人』や『こころ』を読んだということはならないでしょう。しかし繰り返しますが『彼岸過迄』は賺しですから、ぼーっとしている田川敬太郎しか見えません。これがふりなのだとしたら、漱石は相当悪いと思います。




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