解らないはまだある 平野啓一郎の『三島由紀夫論』を読む33
高貴さと妾を持つこととがどのようなバランスで評価されていたのか、と、仮にこれが大正元年の侯爵の身分にある者の例で考えてみた時、それはたしかに「まやかし」で片づけられねばならないほど際どいことではなかったのではないかと思わないでもない。
例えば夏目漱石の『それから』において、「妾」はこの程度に書かれている。
夏目漱石の『それから』は明治四十二年の作。綾倉伊文伯爵も蓼科にお手付きをする。しかし清顕が「まやかし」と言ってみるのはまさに父親が妾を訪ねる際に、清顕の手を引いて散歩の言い訳にしていたからでもあった。清顕はそのことで父が自分に母を裏切らせようとしていると感じていた。
それはさておきやはりここでも解らないのが、この「散歩」が「子供のころ」行われていたという記述である。十一歳の時の日露戦役のことは記憶にない。これはそれ以前の記憶であろう。しかしその時清顕は綾倉家に預けられていたのではなかろうか。
松枝侯爵の洋行の期間、時期。
清顕が綾倉家に預けられていた期間、時期。
清顕が松枝侯爵の散歩に付き合わされた期間、時期。
これらが子供のころという限られた期間の中で重なっていて、なおかつ洋食のマナーを教わる時期と綾倉家で和歌と蹴鞠の雅を学ぶ時期がそれぞれそれなりの長さであろう点を鑑みるとここでも御伽噺的に時間が処理されていているのではないかという疑念も湧いてくる。
この「解らない型アトラクション」はどんどん出てくる。
こんなことを言い出す松枝侯爵はまた鹿児島出身の父親から同じような教えを受けていたに違いない。
ここに平野は「55 「悪」としての透」で示すような「清顕の父への反発」を見出したのかもしれないが、その反発が薩摩隼人の祖父にも届いている筈であることを見逃してはいまいか。
繰り返すが「生れ変り」という概念は父ではなく血統の拒否である。我が子を殺された清顕は形式としては何も残さずにこの世を去ることになる。これは単なる「清顕の父への反発」で収まる話ではない。
平野は「55 「悪」としての透」で、こう書いてみる。
世界認識の破壊はともかく、「相手の自分に対する信頼を裏切る事」という「悪」は松枝清顕にもぴったりとあてはまる事項であるが、この言葉は平野啓一郎の『三島由紀夫論』では透だけに向けられている。ここまで繰り返してきたシンメトリーの確認を怠る事態であり、甚だしい失態というべきではないか。そもそもなぜ新潮社編集部はこれを決定版などと呼び、平野啓一郎はそれを認めたのであろうか。
三島由紀夫作品にはまだまだ解らないところがあり、これではまだ序論に過ぎないとは考えなかったのだろうか。村田英雄や、編集者に対するすっぽかしはどう説明するつもりなのであろうか。
そもそも『春の雪』が読めてすらいないではないか。
松枝清顕が綾倉聡子に誘われて人力車に乗り激しい接吻と軽い愛撫とを果たした後、清顕は麻布三聯隊の営庭を見渡すところで、不意にあの景色に出くわす。明治三十七年六月二十六日の「得利寺附近の戦死者の弔祭」の景色だ。
つまり三島由紀夫という作家は、清顕が聡子と接吻するという酷く私的なふるまいと、「得利寺附近の戦死者の弔祭」の「なんでこうなった?」という悲壮な問いかけを完全にイロジカルな形で重ね合わせようとした。これはあまりにもイロジカルな幻影なので、得利寺の場所も曖昧ならば記憶にさえ残らないことなのかもしれない。しかし十二章になってまだ清顕が、理屈のもっともらしさはともかく物語の書き出しに置いた日露戦役に再び関わっているのは確かなことである。
この点も平野啓一郎の『三島由紀夫論』では完全に無視されている。
あるいはこうした幻は村上春樹が「壁抜け」と称し『ねじまき鳥クロニクル』においてノモンハンの古戦場に登場人物たちを臨場させてしまったような、「無理やり獲得した当事者性」と見做すこともできるかもしれない。
清顕はこの幻をなんとも処理しない。
ただしこの後本多は清顕に歴史と個人の関係を問題として投げかけてみる。
清顕と本多は、百年後という話をしてみる。それが大正元年なら百年後は2012年になろうか。考えてみればもう十二年も前の事だ。私は野村HDに百個の株主提案をして、会社法を変更させた。
松枝清顕に私の株主提案が予測不可能だったように、2112年の読者が松枝清顕をどんな人間と見做すのかは想像もつかない。しかし3112年の読者なら、簡単に想像できよう。松枝清顕は光源氏や藤原定家と比較され、より低い地位から、少しでも高所に上り詰めようとしながらついに果たせず、ただ若者の何ものでもない屈折を表すありきたりな青春譚として、三四郎や薫くんと同じ様にガチャガチャのフィギュアとなり、海洋堂のオンラインストアで販売されていることだろう。
この本多の批判、或いはボヤキはそのまま平野啓一郎の『三島由紀夫論』にあてはまる。おそらく平野啓一郎は三島由紀夫を誤解して、その他大勢の天皇崇拝者と一緒にしてしまっている。平野啓一郎の知っている天皇と三島由紀夫の知っている天皇は恐らく別物である。
本多は歴史と個人の意思の問題を問うている。歴史は、本多のボヤキにも関わらず、平野啓一郎の『三島由紀夫論』を決定版にしてしまうかもしれない。けれどもそんなことがあっていいものであろうか。
なぜならこのことは本多が言うところの偶然でもなく、意志だからだ。文学史を捻じ曲げようとさえ思わない善良な意志。しかしそこには見落としをやり過ごす杜撰さかあるいは怠惰があり、話をまとめてしまおうという作為がある。私が繰り返し欺瞞と呼んできたものは本当はただの「うっかり」なのかもしれない。しかし「うっかり」がありうることを認める慎重な人間は決定版とは書かないものだ。新潮社にはその慎重さが足りない。
例えば平野啓一郎の『三島由紀夫論』は本多繁邦を一貫して認識者として位置づけることでロジックを組み立てている。
ここで語られているのは歴史に対して全く無力な本多の意志のようで、実はその裏返しに何とかして歴史を動かしたいという若さである。無力さの自覚はある。しかし歴史に参与したいと意志しないものは、そもそも無力さになど気が付きもしないものだ。
この後本多は「意思のある人間であることをやめられないんだ」といい、挫折も予告する。
そしてここまで熱く本多に語らせながら、三島由紀夫はこの偉人でも天才でもない本多に、火掻き棒で殴られるという老いを与えることをこの時点でもうすうすは考えていたに違いないのだ。
三島はもともと芝居のように最後の一行までしっかり決めてそこにぴったり持っていく書き方をしていたのだが『天人五衰』に関しては予定が変更されたということがほぼ明らかなので、火掻き棒で殴られるという老いは完全なる決定事項ではない。しかしここには明確な振りがあることから本多が財産家になり、そこから崩れる所までは筋書き通りであろう。
平野啓一郎は本多の「恥」をこう解釈する。いつのまにか本多に対する「認識者」「観察者」という平野啓一郎の定義を受け容れていたところから、この解釈には何の違和感もない。しかし改めて「意思のある人間であることをやめられないんだ」と言っていた十八歳の本多の「歴史に対する関与」の意志を確認してみると、なんでこうねじれてしまったんだろうと不思議になる。
十八歳の本多は何かしでかしそうな若者であった。人間存在の意味を考えていた。
平野はそのねじれの位置とその意味を説明していないのではなかろうか。これも繰り返すように『春の雪』に関する読みの浅さ、軽視からくる陥穽のように思える。
また清顕の祖父も飯沼茂之の父親も薩摩藩の武士として幕府瓦解に尽力した側、個人の意志はどうだか解らないが討幕に加担した行為者であるという視点も見られなかったように思う。清顕の祖父は肖像画として飾られ、飯沼茂之の父親はお宮で観念的に拝むことしかできない。この対も見逃されていまいまいか。
また今更のようにこう問うてみることも可能ではないか。
もしも誰かが誰かの生まれ変わりであり得るとしたら、松枝清顕は誰の生まれ変わりなのであろうかと。
勿論そんな問いを三島由紀夫は作中では示していない。ただ最後の対談で円環的構造と言っていることは確かなのだ。それなのにこれまで「松枝清顕は誰の生まれ変わりなのであろうか」と言い出さなかったのは、安永透という贋物の存在によって「生まれ変わりなどというものは存在しない」と何か諦めさせられ、がっかりしたようなところがあるからではなかろうか。
仮に松枝清顕と本多繁邦が誰かの生まれ変わりであったとしたら、それは丁度日清戦争で死んだ二十歳の兵士だったかもしれない。確かに本多は一度もそんなことは考えてこなかった。そんなことを考えるのは三島由紀夫論を書こうなどと考えるものの役割だからだ。
[附記]
特に『春の雪』に関してはまだまだ書き足らないところがある。
清顕が蓼科を通じて飯沼を懐柔するくだりなどに見える狡猾さは、どこか安永透の「悪」に似たものである。清顕には建前的には悪意はないものの、本音では決して親切とは呼べない残忍さがある。飯沼に女中の「みね」をあてがう清顕の優越は十四章では「冷たい酔ひ」と表現される。飯沼が最も神聖な場所と考える「御文庫」と呼ばれる書庫でみねとあいびきさせることで、飯沼自らに最も神聖な場所を瀆さなくてはならなくさせる。
なんという優雅な精神的な責め苦であろうか。しかし残酷さという意味では安永透に勝るとも劣らない。むしろ解りやすい「悪」ではないところがいやらしい。こんな人間がまた人間に生まれ変われるものであろうか? そう考えてしまうくらいこのくだりは印象的なはずなのだが、はて?
こんなプレイはお好きではない?
[余談]
それにしても平野啓一郎の『三島由紀夫論』は読点の多さが気になる。三島由紀夫を読んでいるとそんな風にはならない筈なのだが。
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