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『薤露行』について①


 例えば『薤露行』という作品に関しては、もう江藤淳の解釈を全く意識しないで読むということが難しくなっているのではなかろうか。あの江藤淳が『薤露行』に新解釈を示し博士号をとったという歴史はゆるぎない。解釈が間違ってましたから博士号を返上しますということにはなるまい。いやしかし、江藤淳や、蓮實重彦というビッグネームに気圧されていては、さらにビッグネームである夏目漱石作品を読む資格などあるまい。
 例えば、夏目漱石というビッグネームは『薤露行』の冒頭、前書きの部分にこんなことを書いている。

 実をいうとマロリーの写したランスロットは或る点において車夫の如く、ギニヴィアは車夫の情婦のような感じがある。この一点だけでも書き直す必要は充分あると思う。テニソンの『アイジルス』は優麗都雅の点において古今の雄篇たるのみならず性格の描写においても十九世紀の人間を古代の舞台に躍らせるようなかきぶりであるから、かかる短篇を草するには大いに参考すべき長詩であるはいうまでもない。元来なら記憶を新たにするため一応読み返すはずであるが、読むと冥々のうちに真似がしたくなるからやめた。(夏目漱石『薤露行』)

 なるほど『薤露行』の本文は麗々たる美文で綴られる。

 百、二百、簇がる騎士は数をつくして北の方かたなる試合へと急げば、石に古りたるカメロットの館には、ただ王妃ギニヴィアの長く牽く衣の裾の響のみ残る。(夏目漱石『薤露行』)

 この「数をつくして」と曖昧な接続助詞「ば」、それから「裾の響」が優麗都雅である。ざっくりしていて、大袈裟、極端なのが雅である。「裾の響」は流石に誇張しすぎだろうと思わせるが、そうまでして漱石は二人だけの空間を拵える。

「ランスロット」と幕押し分けたるままにていう。天を憚かり、地を憚かる中に、身も世も入らぬまで力の籠りたる声である。恋に敵なければ、わが戴ける冠を畏れず。
「ギニヴィア!」と応えたるは室の中なる人の声とも思われぬほど優しい。広き額を半ば埋めてまた捲き返る髪の、黒きを誇るばかり乱れたるに、頬の色は釣り合わず蒼白い。(夏目漱石『薤露行』)

 しかしこのギニヴィアの「身も世も入らぬまで力の籠りたる声である。恋に敵なければ、わが戴ける冠を畏れず」というくだりは、まさに車夫の情婦のような感じがしないだろうか。

「うれしきものに罪を思えば、罪長かれと祈る憂き身ぞ。君一人館に残る今日を忍びて、今日のみの縁とならばうからまし」と女は安らかぬ心のほどを口元に見せて、珊瑚の唇をぴりぴりと動かす。
「今日のみの縁とは? 墓に堰るあの世までも渝らじ」と男は黒き瞳を返して女の顔を眤っと見る。(夏目漱石『薤露行』)

 車夫かどうかは別にして、やはりこれはまるで情婦の言い分ではなかろうか。

「さればこそ」と女は右の手を高く挙げて広げたる掌を竪にランスロットに向ける。手頸を纏う黄金の腕輪がきらりと輝くときランスロットの瞳はわれ知らず動いた。「さればこそ!」と女は繰り返す。「薔薇の香に酔える病を、病と許せるは我ら二人のみ。このカメロットに集まる騎士は、五本の指を五十度繰り返えすとも数えがたきに、一人として北に行かぬランスロットの病を疑わぬはなし。束の間に危うきを貪りて、長き逢う瀬の淵と変らば……」といいながら挙げたる手をはたと落す。かの腕輪は再びきらめいて、玉と玉と撃てる音か、戛然と瞬時の響きを起す。
「命は長き賜物ぞ、恋は命よりも長き賜物ぞ。心安かれ」と男はさすがに大胆である。 (夏目漱石『薤露行』)

 この場面、極端に意訳すればこうなるのではないか。

「だったら」
「だったらさ!」と女は繰り返す。「やりたい病って、そんなん許せるのうちらだけだよ。二百五十人以上いるカメロットの騎士は、みんなランスロットのやりたい病を疑うよ。一晩だけやることやって、それで終わりになったら……」
「命は長いさ、恋は命よりも長い。安心しろって」と男はさすがに大胆である。

 車夫の情婦どころか蓮っ葉な高校生みたいになってしまったが、言葉の雅を剝いだ芯はこんなところだろう。まるで節操がない。

「されど」と少時して女はまた口を開く。「かくてあらんため――北の方なる試合に行き給え。けさ立てる人々の蹄の痕を追い懸けて病癒えぬと申し給え。この頃の蔭口、二人をつつむ疑いの雲を晴し給え」
「さほどに人が怖くて恋がなろか」と男は乱るる髪を広き額に払って、わざとながらからからと笑う。 (夏目漱石『薤露行』)

 女の方もだらしないが、男の方はまた緊張感が足りなさ過ぎないだろうか。これを車夫と云って悪ければ、まるでただのすけこましだ。これが果して漱石と嫂の関係だろうか。どうも私にはそうは思えない。

「後れて行くものは後れて帰る掟か」といい添えて片頬に笑う。女の笑うときは危うい。
「後れたるは掟ならぬ恋の掟なるべし」とアーサーも穏かに笑う。アーサーの笑にも特別の意味がある。
 恋という字の耳に響くとき、ギニヴィアの胸は、錐きりに刺れし痛みを受けて、すわやと躍り上る。耳の裏には颯と音がして熱き血を注す。アーサーは知らぬ顔である。
「あの袖の主こそ美しからん。……」
「あの袖とは? 袖の主とは? 美しからんとは?」とギニヴィアの呼吸ははずんでいる。
「白き挿毛に、赤き鉢巻ぞ。さる人の贈り物とは見たれ。繋がるるも道理じゃ」とアーサーはまたからからと笑う。
「主の名は?」
「名は知らぬ。ただ美しき故に美しき少女というと聞く。過ぐる十日を繋がれて、残る幾いく日を繋がるる身は果報なり。カメロットに足は向くまじ」
美しき少女! 美しき少女!」と続け様に叫んでギニヴィアは薄き履に三たび石の床を踏みならす。肩に負う髪の時ならぬ波を描いて、二尺余りを一筋ごとに末まで渡る。 (夏目漱石『薤露行』)

 この慎みのないギニヴィアが嫂なのだろうか。私にはどうもそうは思えない。

 そは夫に對する妻として完全無缺と申す義には無之候へ共、社會の一分子たる人間としてはまことに敬服すべき婦人に候ひし。

 漱石は子規に宛てた手紙で嫂について、「節操の毅然たる」「性情の公平正直なる」「胸懐の酒々落々」「悟道の老僧の如き見識」を持つと書いている。この嫂にもっとも近い登場人物を敢て求めるとすれば、例えば義弟にあれこれ世話も焼き、ハイカラで代助と趣味の合う『それから』の梅子であろうか。

 代助はこの嫂を好いている。この嫂は、天保調と明治の現代調を、容赦なく継ぎ合せた様な一種の人物である。わざわざ仏蘭西にいる義妹とに注文して、むずかしい名のつく、頗る高価な織物を取寄せて、それを四五人で裁って、帯に仕立てて着てみたり何かする。後で、それは日本から輸出したものだと云う事が分って大笑いになった。三越陳列所へ行って、それを調べて来たものは代助である。それから西洋の音楽が好きで、よく代助に誘い出されて聞ききに行く。そうかと思うと易断に非常な興味を有もっている。石龍子と尾島某なにがしを大いに崇拝する。代助も二三度御相伴に、俥で易者の許まで食付いて行った事がある。(夏目漱石『それから』)

 しかしギニヴィアにはいかにも品がない。嫉妬から床を踏み鳴らすなど、どんな相撲取りかと思ってしまう。「節操の毅然たる」「性情の公平正直なる」「胸懐の酒々落々」「悟道の老僧の如き見識」を持つ……いずれの要素も見つけられない。

「罪あるを許さずと誓わば、君が傍に坐せる女をも許さじ」とモードレッドは臆する気色もなく、一指を挙げてギニヴィアの眉間を指さす。ギニヴィアは屹と立ち上る。
 茫然たるアーサーは雷火に打たれたる唖しの如く、わが前に立てる人――地を抽き出でし巌とばかり立てる人――を見守る。口を開けるはギニヴィアである。
「罪ありと我を誣るか。何をあかしに、何の罪を数えんとはする。詐りは天も照覧あれ」と繊き手を抜け出でよと空高く挙げる。
「罪は一つ。ランスロットに聞け。あかしはあれぞ」と鷹の眼を後ろに投ぐれば、並びたる十二人は悉く右の手を高く差し上げつつ、「神も知る、罪は逃れず」と口々にいう。
 ギニヴィアは倒れんとする身を、危く壁掛に扶けて「ランスロット!」と幽かに叫ぶ。王は迷う。肩に纏わる緋の衣の裏を半ば返して、右手の掌を十三人の騎士に向けたるままにて迷う。(夏目漱石『薤露行』)

 やはりギニヴィアには「節操の毅然たる」「性情の公平正直なる」「胸懐の酒々落々」「悟道の老僧の如き見識」を持つ……いずれの要素も見つけられない。江藤淳や蓮實重彦はここに漱石自身と嫂との不義を見るらしいが、私にはそんなものは見えない。その代わり、もっとぎろりとしたものが見えている。

 今日のみの縁(えにし)とならばうからまし、一晩だけだと残念だ、とアーサー王の王妃が言ったとしよう。ギニヴィアはアーサー王の王妃なのだ。つまり漱石と嫂がどうしたこうしたというモデルうんぬん以前の問題として、仮に皇后陛下に「一晩だけだと残念だ」と云わせるだろうか。いや、確かに云わせているのだ。今日のみの縁とならばうからまし、と。そして皇后陛下に粉をかけるだろうか。ここには嫂云々以前の、電光的胃病の変物夏目漱石の途轍もないところが現れてはいまいか。

 冷静に読めば『薤露行』は節操のない王女とすけこましの不倫を描く実に不敬な小説である。

 






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