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岩波書店・漱石全集注釈を校正する50 毛剃九右衛門の豆腐屋主義は西郷隆盛

明治三十九年十月九日(封書)
 二百十日を御讀み下さつて御批評被下難有存します。論旨に同情がないとは困ります。是非同情しなければいけません。尤も源因が明記してないから同情を强ひる譯にゆかない。其代り源因を話さないでグーグー寝て仕舞ふ所なぞは面白いぢやありませんか。そこへ同情し給ヘ。
 碌さんが最後に降參する所も辯護します。碌さんはあのうちで色々に變化して居る。然し根が呑氣の人間だから深く變化するのぢやない。圭さんは呑氣にして頑固なるもの。碌さんは陽氣にしてどうでも構はないもの。面倒になると降參して仕舞ふので、其降參に愛嬌があるのです。圭さんは應揚でしかも堅くつて自說を變じない所が面白い。餘裕のある逼らない慷慨家です。
 あんな人間をかくともつと逼つた窮屈なものが出來る。又碌さんの樣なものをかくともつと輕薄な才子が出來る。所が二百十日のはわざと其弊を脫して、しかも活動する人間の樣に出來てるから愉快なのである。滑稽が多過ぎるとの非難も尤もであるが、あゝしないと二人にあれだけの餘裕が出來ない。出來ないと普通の小說見た樣になる。最後の降參も上等な意味に於ての滑稽である。あの降參が如何にも飄逸にして拘泥しない半分以上トボケて居る所が眼目であります。小生はあれが棹尾だと思つて自負して居ゐのである。あれを不自然と思ふのはあのうちに滑稽の潜んで居る所を認めない普通の小說の樣に正面から見るからである。僕思ふに圭さんは現代に必要な人間である。今の靑年は皆圭さんを見習ふがよろしい。然らずんば碌さん程悟るがよろしい。今の靑年はドツチでもない。カラ駄目だ。生意氣な許りだ。以上。                            金
虛子先生

(高浜虚子あて書簡)

 かなり陽気な調子で書かれている『二百十日』が『硝子戸の中』と比べるといかにも寂しげなところをうまく作り変えていることが分かる。そして書簡を見るとなかなか手ごたえを感じてもいたようだ。
 割と軽く見られている『二百十日』だが、そもそもみなさん軽く見るほど読めているのか?

 今回もつけあがった人には厳しく、ただひたすら謙虚に正しい読みを目指して書いていく。

 時間のある人は、

 くらいから、私の小説の読みに関する方法論を確認しながら読んでもらいたい。


海賊の張本毛剃九右衛門


「なに自分じゃあ、あれで分ってるんだよ。――そこでその小手を取られたんだあね――」と碌さんが隣りの真似をする。
「ハハハハそこでそら竹刀しないを落したんだあねか。ハハハハ。どうも気楽なものだ」と圭さんも真似して見る。
「なにあれでも、実は慷慨家かも知れない。そらよく草双紙にあるじゃないか。何とかの何々、実は海賊の張本毛剃九右衛門て」
「海賊らしくもないぜ。さっき温泉に這入に来る時、覗いて見たら、二人共木枕をして、ぐうぐう寝ていたよ」
「木枕をして寝られるくらいの頭だから、そら、そこで、その、小手を取られるんだあね」と碌さんは、まだ真似をする。

(夏目漱石『二百十日』)

 岩波はこの張本毛剃九右衛門に関して、海賊で、貿易商人と称していたと註釈をつける。これでは「実は慷慨家かも知れない」というところがつながらない。

海賊といふものは、實はこの時代にはもう無いのでありますが、芝居や淨瑠璃で拵へたので、海賊の張本毛剃九右衞門といふものが出気上がつた。

前の月、卽ち閏十月十九日に、大坂町奉行の北條安房守が、長崎拔荷買一件の犯人六十餘名を處分した、それを見かけての際物なのであります。

江戸の白浪 三田村鳶魚 著早稲田大学出版部 1933年


江戸の白浪 三田村鳶魚 著早稲田大学出版部 1933年

 つまりいわば爆笑問題の時事ネタ毒舌漫才のような形で、近松近松門左衛門が張本毛剃九右衞門というキャラクターを際物として創造して、政治批判をしたという事実が抜けている。『ゴジラ対ヘドラ』は水爆と東京湾のヘドロ、水質汚染に対する文明批判だった。近松近松門左衛門が張本毛剃九右衞門というキャラクターを通じて行ったのは単なる「反体制的な姿勢の表れ」であり「大衆への阿り」でもあるかもしれないが、この「際物」という捉え方がないと註釈としては成立していない。

 ここが解らないと「海賊」→「慷慨家」? 何それ? ということになってしまいかねない。おそらく草双紙の読み手も反体制の悪のヒーローとして張本毛剃九右衞門というキャラクターを認識していたわけで、ただの海賊と見ていたわけではなかろう。
 そこが掴めないと話が曖昧になってしまう。
 しかしそれだけで終わるわけもなく、


筆と紙 石橋思案 著博文館 1900年

 こうした訳の分からない資料も出て來る。張本毛剃九右衞門は草双紙だけに収まるキャラクターでもなさそうだ。
 ヒーローは何度でも蘇る。

豆腐屋主義はきびしいもんだね


「そうして、ともかくも饂飩を食うんだろう。僕の意志の薄弱なのにも困るかも知れないが、君の意志の強固なのにも辟易するよ。うちを出てから、僕の云う事は一つも通らないんだからな。全く唯々諾々として命令に服しているんだ。豆腐屋主義はきびしいもんだね」
「なにこのくらい強硬にしないと増長していけない」
「僕がかい」
「なあに世の中の奴らがさ。金持ちとか、華族とか、なんとかかとか、生意気に威張る奴らがさ」
「しかしそりゃ見当違だぜ。そんなものの身代りに僕が豆腐屋主義に屈従するなたまらない。どうも驚ろいた。以来君と旅行するのは御免だ」
「なあに構わんさ」

(夏目漱石『二百十日』)

 この豆腐屋主義に岩波は、森田草平あての書簡を紹介する注を付ける。

猫黨にして滑稽的十豆腐屋主義と相成る。サボテンからは藝術的でないと云はれ、露西亞黨からは深刻でないと云はれて、小便壺の中でアプアブしてゐる。これから先何になるか、本人にも判然しない。

(森田草平あて書簡)

 森田は、

この豆腐屋主義といふのは、『二百十日』の中の圭さんが寒磐寺の前の豆腐屋出身である所から、あゝした頑固で、しかも餘裕のある社會改良主義者を指して、さう云はれたものである。


夏目漱石 続 森田草平 著甲鳥書林 1943年

 この「豆腐屋主義」の人、圭さんを「餘裕のある社會改良主義者」と解釈している。「圭さんは應揚でしかも堅くつて自說を變じない所が面白い。餘裕のある逼らない慷慨家です」という漱石の弁を巧く整理している。
 どうせならここまで拾いたいところ。何しろ現代人は皆まで書かないと理解しようとしない。
 ここで森田が社會改良主義者としていることも興味深い。
 社会は常に改良すべきだが、安直な完成モデルを想定すべきではないのかもしれない。


西郷隆盛のような顔


「姉さん、この人は肥ってるだろう」
「だいぶん肥えていなはります」
「肥えてるって、おれは、これで豆腐屋だもの」
「ホホホ」
「豆腐屋じゃおかしいかい」
「豆腐屋の癖に西郷隆盛のような顔をしているからおかしいんだよ。時にこう、精進料理じゃ、あした、御山へ登れそうもないな」
「また御馳走を食いたがる」
「食いたがるって、これじゃ営養不良になるばかりだ」

(夏目漱石『二百十日』)

 この西郷隆盛の顔が解らない。

 これがマスイメージとして、熊本なら本当の西郷隆盛の人相が伝わっていたのではなかろうか。

 いろんな西郷さんがいる。しかしまあ「姉さん、この人は肥ってるだろう」というところを見ると、漱石の西郷のイメージは月並みだろうか。この西郷さんの顔に関しては、永遠に真実は知られることは無いかもしれない。


恵比寿

「ビールはござりまっせん」
「ビールがない?――君ビールはないとさ。何だか日本の領地でないような気がする。情けない所だ」
「なければ、飲まなくっても、いいさ」と圭さんはまた泰然たる挨拶をする。
「ビールはござりませんばってん、恵比寿ならござります」
「ハハハハいよいよ妙になって来た。おい君ビールでない恵比寿があるって云うんだが、その恵比寿でも飲んで見るかね」

(夏目漱石『二百十日』)

 この恵比寿に岩波は「明治二十三年三月に発売」と注を付ける。発売は二月二十五日である。

 またここで「日本の領地でないような気がする」と言われるのは、


東京名物志 公益社 1901年

 ビール醸造が輸入ビールを減らすため、国策のように勧められたことによるのではなかろうか。

東京の恵比寿、麒麟に対して、大阪の吹田市で醸造するアサヒビールは関西では人気でしたが、もともとは東京ではさほど売られていなかったものです。それが1914年から1918年にかけての第一次世界大戦時に販路を世界に伸ばし、イラクにては日本國なるものを知るよりもアシァイ·ビールを知るという始末。1918年は大正七年です。いわば朝日ビールは戦争ビールなわけです。それでも恐らく大正十三年当時、東京でのシェアはそれほどなかったのではないかと思われます。

 その後朝日ビールが世界に販路を伸ばす。その手前明治三十九年時点で、ビールは日本中で飲まれていた。

半熟を知らないか


「君この芋を食って見たまえ。掘りたてですこぶる美味だ」
「すこぶる剛健な味がしやしないか――おい姉さん、肴は何もないのかい」
「あいにく何もござりまっせん」
「ござりまっせんは弱ったな。じゃ玉子があるだろう」
「玉子ならござりまっす」
「その玉子を半熟にして来てくれ」
「何に致します」
「半熟にするんだ」
「煮て参じますか」
「まあ煮るんだが、半分煮るんだ。半熟を知らないか」
「いいえ」
「知らない?」
「知りまっせん」
「どうも辟易だな」

(夏目漱石『二百十日』)

また森鴎外の『雁』に出て來る「半助」は五十銭札、河竹黙阿弥の「月梅薫朦夜」の「円介」は「円助」すなわち一円札だと指摘が細かい。その他「身代限り」の流行のピークが明治十七年であるとか、「半熟卵」は散歩やステッキ同様明治期に輸入された概念だとかいう指摘がある。『二百十日』で、

 明治も三十二年(漱石が熊本旅行をした年)ならばいくら熊本の田舎だろうと半熟玉子くらい伝わっていたのではないかとも思うが、実は食べ物の伝搬は緩やかで、案外保守的であったということではなかろうか。なにせ神風連の熊本である。肥後出身の徳富蘆花は全熟卵を食う。他に全熟卵を食べるものが見つからない。

日本から日本へ 東の巻 徳富健次郎, 徳富愛 著金尾文淵堂 1921年


日本から日本へ 東の巻 徳富健次郎, 徳富愛 著金尾文淵堂 1921年


日本から日本へ 東の巻 徳富健次郎, 徳富愛 著金尾文淵堂 1921年

 しかし玉子は真誠の半熟が一番消化も良し、味も良いようです」主人「半熟に真誠と虚偽があるかね」中川「あるさ、真誠の半熟は非常にむずかしいもので我邦では医学博士の鈴木幸之助君が熱心なる研究の末に漸くその方法を発明された。米国では十年以前から行われている。今までの半熟というのは白身ばかり半分固まって黄身は少しも煮えておらん。あれでは白身の半熟で玉子の半熟でない。白身も黄身も共に半熟にならなければ真誠の半熟といわれんが昔から温泉で湯煮るとその半熟が出来る事は人が知っていた。修善寺や熱海の温泉でそういう半熟の玉子を客に出して温泉の効能だと誇っていた。研究の結果によると全く温度の加減にあるので温泉の薬力ではない。奥さん一つ試めして御覧なさい。弱い火へ湯を掛けて玉子を入れるのですがその湯の中へ指先をちょいと入れられる位の温度にして三十分から四十分間位湯煮ると白身も黄身もちょうど良い半熟になりますよ。

(『食道楽春の巻』村井弦斎)

 これが明治三十六年に書かれている。ということは明治三十二年、湯の温度が高い熊本ではちょうど良い半熟は難しかったのかもしれない。

 それに今やどんな山奥の旅館に泊まっても刺身くらいは出てくるものだが、「あいにく何もござりまっせん」というのはやはり時代ということか、それとも地域性なのか。文豪飯研究家の皆さんにはもう少し頑張って調べてもらいたいものだ。


[余談]

 あらためて、何故下女が「ビールはござりませんばってん、恵比寿ならござります」と答えたかと考えてみると「朝日」には新聞もたばこもあるからではないかという気がしてきた。即座に「恵比寿講」があるなと気が付いた。

 何故下女が「ビールはござりませんばってん、恵比寿ならござります」と答えたのか、答えることができたのか、これは永遠の謎である。




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