山茶花の莟こぼるる寒さかな
一見この句にはさしたる工夫が見られない。……ように思える人はどうかしている。明治期の山茶花の句と比べてみよう。
こうして明治の句を連ねてみると、「山茶花」の莟を詠んだものに、
山茶花は蕾がちなり初時雨 河葵暮
があり、「初時雨」が晩秋から初冬にかけての時期の最初の時雨であることからこの時期に莟であることが解る。
そして、
山茶花は散てしまふて寒き庵 三允
山茶花の鏡に落てゐのこ寒ム 青々
山茶花に雨のはてなる霙かな 三寅
といった季節ならではの寒々しい句もあるけれども、むしろ、
花に挿す山茶花白し今朝の春
山茶花にぬくさをいふや姥二人
山茶花や故園の冬の暖かき
といった何故か「あたたかい」句が目立つ。
現在の山茶花の開花時期は十月から十二月、「あたたかい」イメージはない。
山茶花、山茶花、咲いた道……。と、誰もが思い浮かべる歌は秋冬のことを歌っている。木枯らしの季節の歌だ。
ここにはどうも季節のずれがある。山茶花はまだ咲いていない。木枯らしもまだだろう。それで「寒さかな」とは如何にも大げさではなかろうか。木枯らしが吹けば体感温度として寒いということになろう。しかし仮にこの句が十月に詠まれていたとしたら?
そして気になるのがやはり、
山茶花は散てしまふて寒き庵
に対して、
山茶花の莟こぼるる寒さかな
が、やや早いのではないかということだ。散ったころに寒いのであって、莟の時期なら涼しいくらいだ。だから暖かい句も混じる。
仮に「寒さかな」を季語にして、「山茶花の莟」を例の季語殺し理論に当て嵌めると、「こぼるる」の意味は、
このような意味ではないのではなかろうか。
つまりこの句は、
「山茶花の莟がまさに花開こうとしているよ、この時期(十月)の寒さだなあ」
と解釈できないのではなかろうか。
そうではなくて、
「山茶花の莟が花開くこともなく散ってしまった、もう初冬(暮れ)の寒さだなあ」
……というなんとも憐れな句になるのではなかろうか。
このモチーフは、『女』という小説で生々しく描かれもした。
この小説ではおそらく牡蜘蛛を食い殺したのち子をなす雌蜘蛛と、うるんだまま末枯れる莟の対比が描かれる。末枯れたまま匂い続ける莟のなまなましさこそ「女」なのであろう。
山茶花の莟こぼるる寒さかな
この句は山茶花を殺し寒さを立てた句と読めば、この句の中に初冬が見えよう。
山茶花のこるめならざる寒さかな
山茶花のふるぶるし暮れ寒さかな
山茶花やすのこんにゃくの師走かな
山茶花のつれづれとなる寒さかな
山茶花の形見落ちたり寒さかな
今日のところはこの程度に受け止めておこう。この句は初冬の句だ。
【余談】
これが昭和六年、芥川の『河童』が昭和二年なので安吾の云うのももっともだ。
と思えば十返舎一九に『河童尻子玉』という作があった。調べればまだまだありそうだ。