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芥川龍之介の『蜘蛛の糸』をどう読むか① 仏陀はお釈迦様一人

 ある日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。池の中に咲いている蓮の花は、みんな玉のようにまっ白で、そのまん中にある金色の蕊からは、何とも云えない好い匂が、絶間なくあたりへ溢れて居ります。極楽は丁度朝なのでございましょう。

(芥川龍之介『蜘蛛の糸』)

 この下りは朗読CDか何かの宣伝に使われていることから、まず知らない人はいまい。なめらかな美しい日本語だ。

 そこでお釈迦様は仏なのか、そう考えてみた時ふと、何か芥川の怖ろしい逆説が見えてくる。ポール・ケラスの原作では「佛は犍陀多の苦惱を見て慈悲の心に動かされ給ひ、」とあり「御釈迦様」ではなく「佛」が出て來るからだ。
 改めて確認してみると「釈迦」は悟りを開いて「仏陀」となる。この「仏陀」が「佛」である。そして「仏陀」は「御釈迦様」だけである。しかし「釈迦」が悟りを開いて「仏陀」となったのだから「仏陀」を悟る前の呼び名「御釈迦様」と呼ぶことには少し引っかかる。「御釈迦様」ではなく「仏様」と書かないのは「仏様」に単なる「死人」という意味もあることから避けられたものであろうとまずは考えてみる。
 そしてあることに気が付く。『蜘蛛の糸』の粗筋はさすがに説明するまでもなかろう。

①お釈迦様が蜘蛛の糸を垂らす
②犍陀多が上ってくる
③ほかの者たちも上ってくる
④蜘蛛の糸が切れる
⑤お釈迦様が悲しそうな顔をする

 ……大体そんな話だと記憶していた。改めて『蜘蛛の糸』を読み返すと、「③ほかの者たちも上ってくる ④蜘蛛の糸が切れる ⑤お釈迦様が悲しそうな顔をする」あたりからなんとなく怪しくなる。

が、そう云う中にも、罪人たちは何百となく何千となく、まっ暗な血の池の底から、うようよと這い上って、細く光っている蜘蛛の糸を、一列になりながら、せっせとのぼって参ります。今の中にどうかしなければ、糸はまん中から二つに断れて、落ちてしまうのに違いありません。

(芥川龍之介『蜘蛛の糸』)

 何千人もの罪人たちが極楽を目指して上ってくる。なるほど「③ほかの者たちも上ってくる」、ここまではなんとかいいだろう。しかし次はどうだろう。

 そこで犍陀多は大きな声を出して、「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちは一体誰に尋いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と喚きました。
 その途端でございます。今まで何ともなかった蜘蛛の糸が、急に犍陀多のぶら下っている所から、ぷつりと音を立てて断れました。

(芥川龍之介『蜘蛛の糸』)

 さて、糸は切れたのか、切られたのか。

 原作ではいかにも「我執の念」により「永劫解脱の期」を失った、つまり「去れ去れ此絲はわがものなり」と叫んだことが災いして報いを受けたように書かれている。として「地獄とは我執の一名にして、涅槃は正道の生涯に外ならぬ」と少し俗な理屈を述べる。しかし芥川はここに曖昧さを持たせる。糸は切れたのか、切られたのか。ここはよく解らない。解らないように書いている。

 そもそも糸を切ったのは罪人たちの重みそのものではないかと、昔の私は漠然と考えていた。人には皆、いざとなれば藁にもすがりたい思いがあり、犍陀多以外の罪人たちが蜘蛛の糸を上ることに罪はなく、また糸が切れることを心配して「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちは一体誰に尋いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と犍陀多が喚いたことも緊急避難的にやむを得ないことだと。

 あるいはもし犍陀多やほかの罪人たちに罪があったとすれば、地獄からぬけ出し、極楽へ向かおうとしたことだけではないかと。それは衆生が誰でも願っていることで当たり前のことではないかと。

 そこに「仏陀」となったのは「御釈迦様」だけ、と今日確認した事実を加えてみると、あっと気が付く。

 ある日の事でございます。御釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。

(芥川龍之介『蜘蛛の糸』)

 独りで?

 そう仏陀は独りなのだ。「極楽」には様々な解釈がある。ただ『蜘蛛の糸』の「極楽」にいるのはお釈迦様だけなのではなかろうか。仏陀になったのはお釈迦様だけ、誰もそこには到達できないのだ。

 そう気が付いてみると蜘蛛の糸は切れるべくして切れたのだ、としか思えなくなる。何千人もの罪人が悟りのないままうろうろしている極楽などありえないだろう。それよりは新宿の深夜のサウナの方がいくらか増しだろう。

 お釈迦様は「善い事をした報いには、出来るなら、この男を地獄から救い出してやろうと御考えになりました」という前提があるにはある。ではもしも犍陀多が「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちは一体誰に尋いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と言わなければ、蜘蛛の糸は犍陀多の下のところで切れたのだろうか?

 ここで皮肉屋の芥川の笑みが見える。

 そもそも仏陀が独りとはどういうことなのかと。

 弥勒菩薩の下生が56億7千万年後とはどんな冗談かと。「こら、罪人ども。この蜘蛛の糸は己のものだぞ。お前たちは一体誰に尋いて、のぼって来た。下りろ。下りろ。」と悟りへの道を独占したのがお釈迦様なのではないかと。そうでなければ、お釈迦様の導きが正しければ、仏陀が独りなどという事態はあり得ないのではないかと。

 このお釈迦様が悟りを開いていない証拠に、お釈迦さまは極楽において悲しそうな顔をする。

 御釈迦様は極楽の蓮池のふちに立って、この一部始終をじっと見ていらっしゃいましたが、やがて犍陀多が血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、またぶらぶら御歩きになり始めました。自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、犍陀多の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅間しく思召されたのでございましょう。

(芥川龍之介『蜘蛛の糸』)

 なんの、結果として地獄から抜け出したものはあなただけではないのか、という芥川の皮肉、薄ら笑い、氷の微笑、スライトリースマイルが見えてこないだろうか。何も犍陀多だけの話ではない。この世には真面目に謙虚に生きている人間がいくらでもいる。信心深い人もたくさんいる。しかし、それでも56億7千万年間、誰一人悟りを開くことのできないことが確約されている仏教とは一体なんなのか。

太陽は、1億年に1パーセントずつ明るくなってきている。 5億年くらいたつと、地球は太陽の熱のために海水が蒸発(じょうはつ)してしまい、生き物がすめなくなってしまう。 そしてあと50億年後くらいには、太陽が大きくふくらんで地球をのみこんでしまうといわれているよ。

 本当は弥勒菩薩が現れる前に地球は燃え尽きている。
 読売巨人軍も永久に不滅ではなかろう。
 芥川の『蜘蛛の糸』は仏教の悟りの絶対的な不可能性、お釈迦さましか仏陀でないというロジックを法話に寄せて揶揄ってはいまいか。



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