見出し画像

『三四郎』の謎について38 なぜ急にそんな事を言いだしたのか

 単純な他者と複雑な自己について考えたことがあります。

 認知のバイアスというやつで、どうもこの感覚からはなかなか脱出できません。他人は自分より馬鹿に見えるんです。お互いに。

 この感覚は『三四郎』を読んでいても同じで、比較的三四郎に寄り添っている話者のお蔭で、大したことを考えている訳でもない三四郎よりも、どういう具合か与次郎の方が単純に思えてきます。しかし本当によくよく考えてみると、単純に見える与次郎の方が器用で交渉上手、社交的で、能動的です。それに比べて三四郎は飽くまで受け身ですよね。積極的に攻めたのは野々宮が留守の時に野々宮の家を訪ねてよし子の絵を褒めた時くらいですかね。後はほぼ受け身です。

 この受け身の主人公が女にもてるような話というのは村上春樹さんの十八番で、「ほら、羊をさがさなきゃ」とか「やみくろを退治するのよ」みたいに女の子に言われるままふらふらする様は、これまで近代文学1.0によって散々批判されてきました。母性に対する甘えとか、それからなんとかいう難しそうなカタカナ言葉が組み合わされて、まるで宇宙の根源的な悪でもあるかのように罵られてきました。しかしそれ、そんなに酷いことだったんでしょうか。

 村上作品に対する一つの典型的なラベリングに、「引きこもりの男がやたらと女にもてる話」というものが確かにあったと思います。そういうものが何十年も続いたので、村上さんはもう逆にそうしてやろうということで『女のいない男たち』の『シェエラザード』なんかを書いたんじゃないかと私は勝手に思っている訳です。

 友達と言えばせいぜい与次郎(とあと一人の名無し)ぐらいしかいない受け身の三四郎が「おはいりなさい」「お掛けなさい」「お敷きなさい」「明日午後一時ごろから菊人形を見にまいりますから、広田先生の家までいらっしゃい。美禰子」なんて具合に女の子に引っ張りまわされる様子は、ある意味村上春樹作品の原型ですよね。しかしなんですか「青春小説の金字塔」の人こそは、そうしたオタク文学を徹底的に批判していませんでしたっけ? この態度矛盾しているか、読めていないのかどちらでしょうか。

 勿論柄谷行人唯一人が宇宙の根源的な悪であるわけもなく、そもそも『三四郎』を「受け身の話」という角度から村上春樹作品との類似性を指摘するなんてことは、これまで誰もしてこなかったわけです。

 誰か物真似の人が言ってましたが、物真似をするということはレシピを公開するようなもので、誰か一人がその人の物真似を発明すると、他の物真似芸人全員がその人の物真似が出来るようになるそうです。

 私はこの途轍もない知ったかぶりだけでも蓮實重彦を文学界から永久追放する必要があると思っています。こんなことやっちゃいけませんよ。学者として失格でしょう。剽窃にも限度がありますよ。そして見事に失敗しています。

 いわゆる切り口を見つけるという点では文芸批評も同じですね。私が乃木静子を論じない『こころ』論は駄目だ、と書いたのを読めば、この一言から評論家は誰でも分厚い『こころ』論を書くことが出来る筈です。羞恥心と良心さえ投げ捨てればなんでもできます。ただ逆に切り口を見つけるセンスもなく、デッドコピー能力があるのが評論家だという言い方も出来ますよね。

 柄谷行人はあらゆる漱石論はいまだ江藤淳を越えられていないとまで語っていませんでしたか。

 しかし江藤淳が『三四郎』を「受け身の話」という角度から村上春樹作品との類似性を指摘するなんてことしてましたかね。

 で、まあ村上春樹作品との類似性なんて話は実はどうでもよくて、単純な他者と複雑な自己という認知のバイアスを脱してみれば、この三四郎に寄り添う話者の所為でどちらかといえば単純に捉えられかねない与次郎の積極性が、そう単純なものではなく、トリックスターという役割に徹しようとしているだけだ、と思えてくるという話です。

 与次郎は愛すべき馬鹿でおっちょこちょい、というだけではないのではないかという話です。

「美しい空だ」と三四郎が言った。与次郎も空を見ながら、一間ばかり歩いた。突然、
「おい、君」と三四郎を呼んだ。三四郎はまたさっきの話の続きかと思って「なんだ」と答えた。
「君、こういう空を見てどんな感じを起こす」
 与次郎に似合わぬことを言った。無限とか永久とかいう持ち合わせの答はいくらでもあるが、そんなことを言うと与次郎に笑われると思って三四郎は黙っていた。
つまらんなあ我々は。あしたから、こんな運動をするのはもうやめにしようかしら。偉大なる暗闇を書いてもなんの役にも立ちそうにもない」
「なぜ急にそんな事を言いだしたのか」
この空を見ると、そういう考えになる。――君、女にほれたことがあるか」
 三四郎は即答ができなかった。
「女は恐ろしいものだよ」と与次郎が言った。
「恐ろしいものだ、ぼくも知っている」と三四郎も言った。すると与次郎が大きな声で笑いだした。静かな夜の中でたいへん高く聞こえる。
知りもしないくせに。知りもしないくせに
 三四郎は憮然としていた。(夏目漱石『三四郎』)

 気づいてましたか、ここ。

 「なぜ急にそんな事を言いだしたのか」は明らかに三四郎の台詞なんですが、これは漱石の声でしょう。これこそが予告にあった「あとは人間が勝手に泳いで、自から波瀾が出来るだらう」が出た部分じゃないでしょうか。広田にぞっこん、お金にだらしない、交渉上手、人見知りしない、そうした佐々木与次郎のなかなか他人に見せない部分が、ここにひょいと現れていますね。「なぜ急にそんな事を言いだしたのか」は謎です。

 この謎はなかなか厄介です。星空を見上げて「運動」……つまり広田を大学教授に推挙することをやめようかと言い出す、そんなことは無駄なんじゃないかと、その後急に「女の恐ろしさ」の話になります。この流れ、かなり意味深じゃないですか。

 遡ると、「与次郎は女の恐ろしさを知った」→「運動に走った」みたいに捉えられませんか。しかもそれが星空を見上げれば空しいことのように思える。つまり本当に自分がやりたいことでもなく意義も感じていないと……。ならば何故「運動」をしているかと言えば、まるで恐ろしい女から逃避するための代償行為として広田と結びついているかのような言い分になっていないでしょうか。

 しかしちょっと待ってくださいよ。

「なに、もう五、六年もすると、あれより、ずっと上等なのが、あらわれて来るよ。日本じゃ今女のほうが余っているんだから。風邪なんか引いて熱を出したってはじまらない。――なに世の中は広いから、心配するがものはない。じつはぼくにもいろいろあるんだが、ぼくのほうであんまりうるさいから、御用で長崎へ出張すると言ってね」
「なんだ、それは」
「なんだって、ぼくの関係した女さ
 三四郎は驚いた。
「なに、女だって、君なんぞのかつて近寄ったことのない種類の女だよ。それをね、長崎へ黴菌の試験に出張するから当分だめだって断わっちまった。ところがその女が林檎を持って停車場まで送りに行くと言いだしたんで、ぼくは弱ったね」
 三四郎はますます驚いた。驚きながら聞いた。
「それで、どうした」
「どうしたか知らない。林檎を持って、停車場に待っていたんだろう」
ひどい男だ。よく、そんな悪い事ができるね」
「悪い事で、かあいそうな事だとは知ってるけれども、しかたがない。はじめから次第次第に、そこまで運命に持っていかれるんだから。じつはとうのさきからぼくが医科の学生になっていたんだからなあ」
「なんで、そんなよけいな嘘をつくんだ」
「そりゃ、またそれぞれの事情のあることなのさ。それで、女が病気の時に、診断を頼まれて困ったこともある」
 三四郎はおかしくなった。
「その時は舌を見て、胸をたたいて、いいかげんにごまかしたが、その次に病院へ行って、見てもらいたいがいいかと聞かれたには閉口した」
 三四郎はとうとう笑いだした。与次郎は、
「そういうこともたくさんあるから、まあ安心するがよかろう」と言った。なんの事だかわからない。しかし愉快になった。(夏目漱石『三四郎』)

 この林檎の女は「君なんぞのかつて近寄ったことのない種類の女」と書かれているから芸妓でしょうか。唯一語られる与次郎の女の話では、女は全然恐ろしくなどありませんよね。寧ろ悪いのは与次郎で、芸妓にしろ人妻にしろ、むしろ女はいじらしいじゃありませんか。ということはこれより外に別の怖ろしい女を体験したという理屈ですよね。

 そして「知りもしないくせに。知りもしないくせに」なんですが、これは「君には女性経験がないだろう」という意味と「君は僕の事を何も知らないだろう」という意味が被っているように聞こえませんか。

 すると、はっと気が付きます。三四郎が受け身であることの『三四郎』という作品の中での意味が見えてきます。

「君なぞは自分のすわっている周囲方二尺ぐらいの所をぼんやり照らすだけだから、丸行燈のようなものだ」
 丸行燈に比較された与次郎は、突然三四郎の方を向いて、
小川君、君は明治何年生まれかな」と聞いた。三四郎は簡単に、
「ぼくは二十三だ」と答えた。
「そんなものだろう。――先生ぼくは、丸行燈だの、雁首だのっていうものが、どうもきらいですがね。明治十五年以後に生まれたせいかもしれないが、なんだか旧式でいやな心持ちがする。君はどうだ」とまた三四郎の方を向く。三四郎は、
「ぼくはべつだんきらいでもない」と言った。
「もっとも君は九州のいなかから出たばかりだから、明治元年ぐらいの頭と同じなんだろう」
 三四郎も広田もこれに対してべつだんの挨拶をしなかった。(夏目漱石『三四郎』)

 もう、気が付きましたよね。

「あの人はたいへんにぎやかな人ですね」と三四郎の隣の金縁眼鏡をかけた学生が言った。
「ええ。よくしゃべります」
「ぼくはいつか、あの人に淀見軒でライスカレーをごちそうになった。まるで知らないのに、突然来て、君淀見軒へ行こうって、とうとう引っ張っていって……」
 学生はハハハと笑った。三四郎は、淀見軒で与次郎からライスカレーをごちそうになったものは自分ばかりではないんだなと悟った。(夏目漱石『三四郎』)

 質問するのは与次郎、答えるのは三四郎、与次郎のことは誰も訊いてくれないのです。

「野々宮さんはもとから里見さんと御懇意なんですか」
「ええ。お友だちなの」
 男と女の友だちという意味かしらと思ったが、なんだかおかしい。けれども三四郎はそれ以上を聞きえなかった。
「広田先生は野々宮さんのもとの先生だそうですね」
「ええ」
 話は「ええ」でつかえた。
「あなたは里見さんの所へいらっしゃるほうがいいんですか」
「私? そうね。でも美禰子さんのお兄いさんにお気の毒ですから」
「美禰子さんのにいさんがあるんですか」
「ええ。うちの兄と同年の卒業なんです」
「やっぱり理学士ですか」
「いいえ、科は違います。法学士です。そのまた上の兄さんが広田先生のお友だちだったのですけれども、早くおなくなりになって、今では恭助さんだけなんです」
「おとっさんやおっかさんは」
 よし子は少し笑いながら、
「ないわ」と言った。美禰子の父母の存在を想像するのは滑稽であるといわぬばかりである。よほど早く死んだものとみえる。よし子の記憶にはまるでないのだろう。(夏目漱石『三四郎』)

 このように三四郎はよし子や美禰子関係の事は質問していますが、与次郎には質問しません。いえ、よく読むと、

「君の所の先生の名はなんというのか」
「名は萇」と指で書いて見せて、「艸冠がよけいだ。字引にあるかしらん。妙な名をつけたものだね」と言う。
「高等学校の先生か」
「昔から今日に至るまで高等学校の先生。えらいものだ。十年一日のごとしというが、もう十二、三年になるだろう」
「子供はおるのか」
「子供どころか、まだ独身だ」
 三四郎は少し驚いた。あの年まで一人でいられるものかとも疑った。(夏目漱石『三四郎』)

 三四郎は広田の事も質問しています。しかし与次郎に対しては何故か「おとっさんやおっかさんは」と質問しないのです。その結果与次郎の家族関係は不明です。他の主要な登場人物にはそれなりのプロフィールがあるのに与次郎にはただ広田の所に寄宿しているというくらいしか情報がありません。

 そして改めて読み返すと「まるで知らないのに、突然来て、君淀見軒へ行こうって」何だか悲しくないですか。『三四郎』ってある意味ではトリックスター与次郎が疎外されている話ですよね。逆に疎外されているから積極的にトリックスターとしての立ち居振る舞いを見せなくてはならないのかと考えてしまいます。

 そんな与次郎の寂しさが星空を見上げた瞬間「つまらんなあ我々は」という愚痴としてこぼれた、複雑なる他者としての与次郎が一瞬現れた、「あとは人間が勝手に泳いで、自から波瀾が出来るだらう」と気楽に考えていたら、泳いだ結果「是等の人間」が勝手に人格を持ってしまった、そこでまるでAIが突然「こころ」を持って慌てるかのように、思わず漱石が三四郎をして言わせた台詞が「なぜ急にそんな事を言いだしたのか」だったのではないでしょうか。

 そもそも「なぜ急にそんな事を言いだしたのか」はあたかも地の文で、会話文としては少し堅いですよね。この「のか」には与次郎の疎外に気づいていなかった漱石の驚きが幾分かは乗っかっていると見てよいでしょう。


[余談]

 『現役高校教師が案内する東京文学散歩 東京探見』(堀越正光、宝島社、2005年)に、三四郎池の正式名称は「心字池」だ、なんて書いてありましたが「心字池」って、「草体の「心」の字にかたどって造られた日本庭園の池」という意味で様式ですよね。で、正式名称は? そんなもん、もう三四郎池でいいのかな?


 帽子!












この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?