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『彼岸過迄』を読む 4337 父との和解の可能性

 さて、いよいよ分からなくなってきました。『彼岸過迄』とはどんな小説で、どう読んで行けばいいのか、本当に分からなくなりました。

 昨日書いたこの記事、まだ誰も読んでいないようですが、須永市蔵がデリカシーのない男で、親戚中から嫌われているんじゃないかという話になりました。正月に歌留多に呼ばれないわけですから、本人が僻んでも仕方ありません。まさに「僻ん過ぎ迄」です。田山花袋なら、雑誌や絵葉書を盗み見る以上のことをしたかもしれません。皆さん案外覚えていませんが、『1Q84』で川奈天吾は無意識に洗濯機の中に脱ぎ捨てられたふかえりのパンツを手に取りますよね。

 須永市蔵は流石にそんなことはしません。それは夏目漱石が田山花袋とは違うからです。しかし人間にはそういうところがあるのだということは夏目漱石も理解していて、その上でぎりぎりのところを書いているわけですね。

 ぎりぎりの所といえばという話ですが、須永市蔵は軍人を嫌い、父親を否定しているような気配がありますね。しかし漱石はこっそり二人に和解を仕掛けているんではないかと見ることもできるのではないでしょうか。

 その根拠は作に対する市蔵の眼差しです。

 母がいないので、すべての世話は作という小間使がした。鎌倉から帰って、始めてわが家の膳に向った時、給仕のために黒い丸盆を膝の上に置いて、僕の前に畏まった作の姿を見た僕は今更のように彼女と鎌倉にいる姉妹との相違を感じた。作は固より好い器量の女でも何でもなかった。けれども僕の前に出て畏まる事よりほかに何も知っていない彼女の姿が、僕にはいかに慎やかにいかに控目に、いかに女として憐れ深く見えたろう。彼女は恋の何物であるかを考えるさえ、自分の身分ではすでに生意気過ぎると思い定めた様子で、おとなしく坐っていたのである。僕は珍らしく彼女に優しい言葉を掛けた。そうして彼女に年はいくつだと聞いた。彼女は十九だと答えた。僕はまた突然嫁に行きたくはないかと尋ねた。彼女は赧い顔をして下を向いたなり、露骨な問をかけた僕を気の毒がらせた。僕と作とはそれまでほとんど用の口よりほかに利いた事がなかったのである。僕は鎌倉から新らしい記憶を持って帰った反動として、その時始めて、自分の家に使っている下婢の女らしいところに気がついた。愛とは固より彼女と僕の間に云い得べき言葉でない。僕はただ彼女の身の周囲まわりから出る落ちついた、気安い、おとなしやかな空気を愛したのである。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 果たして十九歳にもなって恋を知らない女性が存在するでしょうか。しかし作は大人しい女のようです。あれ?

 千代子の母親はこんなことを言っていませんでしたでしょうか?

「市さんももうそろそろ奥さんを探さなくっちゃなりませんね。姉さんはとうから心配しているようですよ」
「好いのがあったら母に知らしてやって下さい」
「市さんにはおとなしくって優しい、親切な看護婦みたような女がいいでしょう」
「看護婦みたような嫁はないかって探しても、誰も来手はあるまいな」
 僕が苦笑しながら、自ら嘲るごとくこう云った時、今まで向うの隅で何かしていた千代子が、不意に首を上げた。
「あたし行って上げましょうか」
 僕は彼女の眼を深く見た。彼女も僕の顔を見た。けれども両方共そこに意味のある何物をも認めなかった。叔母は千代子の方を振り向きもしなかった。そうして、「御前のようなむきだしのがらがらした者が、何で市さんの気に入るものかね」と云った。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 そう、確かに言ってました。この点は本人にも自覚がありましたよね。千代子とでは性格が合わないと。具体的には何と言っていましたっけ。詩と哲学でしたか。

 僕の思い切った事のできずにぐずぐずしているのは、何より先に結果を考えて取越苦労をするからである。千代子が風のごとく自由に振舞うのは、先の見えないほど強い感情が一度に胸に湧き出るからである。彼女は僕の知っている人間のうちで、最も恐れない一人である。だから恐れる僕を軽蔑するのである。僕はまた感情という自分の重みでけつまずきそうな彼女を、運命のアイロニーを解せざる詩人として深く憐むのである。否時によると彼女のために戦慄するのである。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 まあ、何だか難しそうなことを言っていますが、要するに千代子は「むきだしのがらがらした者」なんでしょう。それから須永市蔵は妙に含みのあるやり方で作と何かを対比していましたね。

 ここです。

 僕の前に畏まった作の姿を見た僕は今更のように彼女と鎌倉にいる姉妹との相違を感じた。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 千代子と作の対比ではなく、千代子+百代子に対して作を比較しているわけですね。つまり千代子も百代子もかなり大人しくはなさそうです。これでなんとなく「高木を千代子に紹介したのは百代子説」がさらにもっともらしく見えてきましたね。田川敬太郎が、

 百代子からは、あたしあなたと組むのは厭よ、負けるにきまってるからと怒られた。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 ……と怒られる場面のほかはあまり具体的には書かれていませんが、どうやら百代子も「むきだしのがらがらした者」なんでしょう。こうなると、作の気持ちは別として、須永市蔵の性格からして作はお似合いなんではないかと思えてきませんか。

 僕が作のために安慰を得たと云っては、自分ながらおかしく聞こえる。けれども今考えて見てもそれよりほかの源因は全く考えつかないようだから、やっぱり作が――作がというより、その時の作が代表して僕に見せてくれた女性のある方面の性質が、想像の刺戟にすら焦躁立ちたがっていた僕の頭を静めてくれたのだろうと思う。白状すれば鎌倉の景色は折々眼に浮かんだ。その景色のうちには無論人間が活動していた。ただそれが僕の遠くにいる、僕とはとても利害を一にし得ない人間の活動らしく見えたのは幸福であった。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 正直に言えば私は、須永市蔵の出自の秘密を知った再読以降では、この小間使いと主人との関係が市蔵の父親と御弓との関係と相似形をなすことを剣呑に感じていました。これは不味いぞ、それこそ遺伝か、と冷やかすような感情がありました。

 しかし逆にここに須永市蔵と父親との和解の可能性も見えてきますよね。

 これまで私は須永市蔵の父親について、

 咎という厳しい言葉を使い、小間使いを妊娠させて殺した悪人であるかのように書いてきました。だから市蔵が軍人ぎらいであるのだろうと考えるのに都合がいいからです。

 しかし改めて須永市蔵と作との関係を眺めてみると、むしろ市蔵の父親と御弓との関係も、元々はこんな風なものではなかったのかなとも思えてきます。結果的に手を出して妊娠させてしまったのは事実として、御弓が髪を島田に結い、督促髷であったのも事実です。つまり御弓の側にその気が全くなかったわけではないとすれば、たとえそれが現代においては妻に対する許されざる裏切り行為であれ、当時の日本社会においては、市蔵の父親と御弓が関係を持つことが極悪非道なふるまいだと決めつけることはできないのではないでしょうか。

 市蔵が二十五歳とします。つまり市蔵の父親と御弓が関係を持ったのが明治二十年ごろだと考えてみましょうか。大正天皇は明治十二年の生まれ、生母は明治天皇の側室、柳原愛子(やなぎわらなるこ)ですってもう何回も書きましたよね。いや、ありっちゃありなんじゃないですか。

 僕は僕の前に坐っている作の姿を見て、一筆がきの朝貌のような気がした。ただ貴い名家の手にならないのが遺憾であるが、心の中はそう云う種類の画と同じく簡略にでき上っているとしか僕には受取れなかった。作の人柄を画に喩えて何のためになると聞かれるかも知れない。深い意味もなかろうが、実は彼女の給仕を受けて飯を食う間に、今しがたゲダンケを読んだ自分と、今黒塗の盆を持って畏っている彼女とを比較して、自分の腹はなぜこうしつこい油絵のように複雑なのだろうと呆れたからである。(夏目漱石『彼岸過迄』)

 なんだか市蔵の作に対する感情は清い。十九歳の娘に対してあまりにも清い。二十五歳の健康な男子なら、もう少し生々しくてもよさそうなところを漱石は敢えてこうして描いているのではないでしょうか。そして我々に、市蔵の父親と御弓が関係だってそう何でもゾロ、モーパッサン的に俗悪に捉えるものでもないよと諭しているようではありませんか。

 我々に?

 いや、失礼。『彼岸過迄』について、このくらい細かく読んでいるのはこの宇宙で私一人だろうから、諭されているのは私一人だけでした。


[余談]

二重真理(にじゅうしんり)とは、相矛盾する二つの命題が、一方が哲学の原理で真理であれば、真理であり、他方も宗教的信条によって真理であれば、真理であるという立場である。二重真理説とも。(ウイキペディア「二重真理」)

 

二重思考(にじゅうしこう、ダブルシンク、doublethink)は、ジョージ・オーウェルの小説『1984年』に登場する思考能力であり、物語の中核をなす概念。
作中では「相反し合う二つの意見を同時に持ち、それが矛盾し合うのを承知しながら双方ともに信奉すること」[1]と説明されており、舞台となっている全体主義国家では民主主義などは存立しえない、という事実を信じながら、なおかつ、国家を支配する「党」が民主主義の擁護者である、というプロパガンダをも同時に信じるなど登場人物の思考に大きな影響を与えている。
二重思考は作中の全体主義国家オセアニアの社会を支配するエリート層(党内局員)が半永久的に権力を維持するため、住民(中間階級である党外局員ら)および自分たち自身に実践させている思考能力である。二重思考を実践していると、自分自身の現実認識を絶えずプロパガンダと合致する方向へと操作し、しかも操作したという事実をどこかで覚えている状態となる。
「二重思考」とはニュースピーク(新語法)による単語であり、オールドスピーク(旧語法、現実の英語)に直せば、「リアリティー・コントロール」(真実管理)となる。(ウイキペディア「二重思考」より)

 総じて考えすぎ、ああもとれるしこうもとれると行きつ戻りつの繰り返しでらちが明かない、と思われても仕方がない。しかしこれは夏目漱石作品の特色なのだ。谷崎の小品のようにスパッとは切れない。切ったと思ったら切られている。悪いのは私ではなく漱石なのだ。たぶん。








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